京都から日光への道のり

例幣使一行が京都を出立するのは、例年三月末から四月一日までの期間であった。中山道と例幣使街道、そして壬生通りや日光街道を経て、遅くとも四月十五日には日光に到着することになっていた。

往路に中山道を取って東海道を避けたのは、大井川などでの川留めを恐れたからである。中山道は東海道に比べれば山道や峠道が多かったものの、河川は少なかった。その分、川留めの危険性は低い。

例祭の前日にあたる十六日、例幣使は神前への奉幣を行い、翌日の例祭に備えた。ただし、例祭自体には参列せず、奉幣を済ませると帰路に就く。

帰路は今市宿から壬生通りを経由し、小山からは日光街道に道を取る。その後は、一路江戸に向かった。

江戸では、奉幣が済んだ旨を幕府に報告した。その後、東海道を経由し、四月末には京都に戻っている。

例祭に遅れるわけにはいかなかったため、往路は川留めの危険性が少ない中山道を取ったが、任務を果たした後は旅程が遅れても構わなかったわけだ。川留めの危険性があっても、山道の少ない東海道を選んだのである。

つまり、帰路は例幣使街道を通っていない。日光例幣使街道とは、いわば年に一回、片道しか利用されない街道だった。

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日光例幣使になると財産を築ける謎

幕府の要請に応えて毎年京都から派遣された日光例幣使には、中級クラスの公家が任命されたが、例幣使を望む者は非常に多く狭き門となっていた。

なぜ、公家は例幣使に任命されることを強く望んだのか。役得があったからだ。例幣使を一度でも務めると、「御釜をおこす」ことができたという。財産を作れたのである。そのため、生活苦にあえぐ公家たちにとり例幣使に任命されることは垂涎すいぜんの的だった。

当の公家だけではない。その話を聞き付けた出入りの米屋、豆腐屋、薪炭しんたん屋などが押し掛け、御供をさせて欲しいと求めてくる。概して公家は懐が寂しく、出入りの商人への払いが滞っていた。ところが例幣使の御供をすると、出入り商人側にもこれまた役得があったのだ。

例幣使は駕籠に乗って日光へと向かったが、道中でわざと駕籠から落ちるのが日常的な光景となっていた。身分が高い公家であるから、怪我でもされたら一大事である。

その上、例幣使の役目とは歴代将軍も頭が上がらない東照神君へ幣帛を奉献することだった。そんな大事な役目を帯びた身分の高い公家に怪我を負わせたとなれば、ただで済むはずがない。

一行には宿場で用意した駕籠かき人足や荷物を運ぶ人足たちが同行していたので、例幣使は彼らにクレームを入れる。徴用された人足たちはその土地の農民であり、次の宿場まで一行を送り届けることが役目だが、落ち度があったと糾弾するのである。

まったくの言いがかりだが、農民(人足)たちには相手が悪すぎた。公家から幕府に訴えられては厳罰を免れない。