「落とすため」の選抜試験に成り下がった大学入試

高等教育は社会のためにあるのか、それとも個人のためにあるのか。

現状は、社会のためから個人のための教育へと大きく傾斜している。国立大学はこれまで入試日を統一し、5(6)教科7科目を課して試験を実施してきた。私立大学が無試験からせいぜい3教科3科目までの試験に終始している現状とは対照的である。

これは一定の水準以上の学力を持つ学生を総合的に選別し、その能力をさらに高め、洗練された市民として社会に送り出すことを国立大学の共通な使命としているからである。授業料を統一し、入学者を定員の枠内に留めているのも、特定の大学に志願者が集中しないように、大学間に格差が生じないようにする配慮の結果である。

しかし、それでも大学間、分野間(とくに医学部と他学部)の格差は生じる。それは、大学や分野によって卒業後の社会的地位に差が生じると見なされているためであり、大学入試が「落とすため」の選抜試験に成り下がっているからである。そのため、なるべく社会の上層部へ通じる大学へ入学させようとして、親たちは早くから子どもたちを受験勉強に駆り立て、受験産業は難関大学や難関学部の入学を目標にして勉学のコースを提供する。

その結果、入りたい大学ではなく、偏差値の合う大学を目指すことになる。入学後にミスマッチが生じて勉学意欲が減退し、学力が上がるどころか低下して卒業できない学生が増加する。つまり、現代の大学は個人(あるいは親)の希望に沿った教育システムに変化を遂げつつあるが、社会の期待に応えるような人材育成からは遠ざかっていると言えるのではないだろうか。

日本には高校生の学力を測る共通基準がない

これには、日本の教育が抱える特殊事情がある。

まず、日本では高校生の学力を測る全国テストを国レベルで実施してこなかった。ヨーロッパではフランスのバカロレアをはじめとして、各国で一斉テストを行い、大学へ進学する資格を得る。大学はこの成績を元に、独自の選抜評価基準を設ければいい。

しかし、日本では各高校が学生の卒業を認定し、それが大学の入学資格となっている。全国に共通する基準がないので、大学が独自に入学選抜試験を実施しなければならなくなっているのだ。大学入試が「落とすため」の試験に成り下がっている理由がここにある。

実は、2015年に始まった文科省による「高大接続システム改革会議」はそれを改善し、大学教育、大学入試、高校教育を三位一体として改革していくことを目指していた。それが、大もめにもめた挙句、本来の目的を見失って記述式問題や英語の4技能という入試の問題だけに縮小してしまったのは何とも残念な気持ちである。

米国の企業型経営方式を採用するにも問題がある。米国の大学は全国標準テストのACTやSATを利用し、大学がプロの面接官を採用したりして能力のある学生を選抜している。しかし、これは個人や企業の寄付を可能にする税制の後押しにより、大学が自己資金を集めやすいことが前提となっている。

米国政府は自国の高等教育が世界に波及することを国際戦略としており、留学生を増やし、他国に米国の大学が進出することを支援している。学生や研究者の流動性が高まることは米国の外交戦略の柱なのである。日本ではとてもこのような税制改革や外交戦略は望めない。