旧宮家案は「パンドラの箱」

私自身は、自由・平等という価値があまねく人々に保障されるためには、少なくとも現在および予想しうる将来の世界においては、国家統治のあり方が健全に保たれることが、前提として欠かせないと考えている。その前提を支える条件は、国によってさまざまだろう。わが国の場合は、天皇・皇室こそがとりわけ重要な役割を果たされているのではないか。そのように考えているので、天皇・皇室の存在を単純に平等の敵対物と見るような、硬直した旧式の考え方には賛同できない。

高森明勅『「女性天皇」の成立』(幻冬舎新書)

しかし、経済格差の拡大に歯止めがかからず、社会の各方面に不遇感やいわゆる“上級国民”への反発などが蓄積している時代傾向の中で、天皇・皇室を「平等」理念の対極にある存在と捉える見方が、もはや二度と現れないと決めてかかることはできない。

しかし、これに対しては、自由・平等の法的な意味での最後の“拠り所”と言うべき憲法それ自体が、天皇・皇室と国民の間に厳格な線引きをして、国民には「法の下の平等」を保障しながら(“国民平等”の原則)、天皇・皇室はその保障に欠かせない公的秩序の枢軸として、カテゴリー的に区別している――というクリアな説明ができる。

ところが、もし家柄・血筋を理由として、国民であるはずの旧宮家系の人々だけが皇室との養子縁組をできるという特権的な扱いを受けた場合、その“線引き”が崩れてしまいかねないだろう。すでに触れたように、旧宮家系の人々と、それ以外にも多く国民の中に存在する「皇統に属する男系の男子」との間の線引きも、どうなるか気がかりだ。そこの線引き自体が“差別”とも言いうるし、逆に線引きをしなければ、皇室と国民の線引きがとめどなく崩れてしまう危険性がある。

従って、旧宮家案は憲法違反と見なさざるをえないだけでなく、天皇・皇室と「平等」理念とのあやうい均衡を破る、「パンドラの箱」になりかねない。

よもや、政府がまともに取り上げることはあるまいが、くれぐれも警戒を怠ってはならないだろう。

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