戦時統制期の家族観を「モデル世帯」という概念で継承している

このような中で社会規範や道徳も戦時統制色が色濃く反映された。道徳的頽廃は戒められ(現実はさておき)、男は職場や戦地に行き、女は家庭・銃後を守るという性差での役割がハッキリと固定化されたのもこの時期と重なる。

敗戦と共に一時の混乱期を乗り越えた日本は、軍隊こそ解体されたがこの戦時統制期に出来上がった家族観を「モデル世帯」という概念で継承した。男は企業戦士となり、女は専業主婦として家庭を守る。世界的にも類例を見ない異質な「専業主婦」という単語が平然と使われ続けた。

国家の縮小版が家庭だとすると、そこには「男・女」の性分担が原則存在しない「理屈」となるLGBTなどは枠外の事とされ、その権利擁護にあっては長い間黙殺され続けた。

日本社会で形成されたこの特異な戦時統制期とその残滓を、保守派は「日本の伝統」と言っているだけであり、1500年の日本史の中でそういった世界観が出来上がったのはたかだか100年未満に過ぎない寧ろ異端の社会規範である。つまり保守派の言う「日本の伝統」は単なる幻想に過ぎない。それでも彼らは、日本の伝統が、日本の伝統が、と言い続ける。奇妙な倒錯としか言いようがない。

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活動家に利用されるという妄想

昨今急速に出てきた「反LGBT権利擁護」理屈の中に、活動家にLGBT擁護法案等が利用(悪用)され、社会が混乱するというモノが急速に広まっている。保守派の想定する世界では、LGBTなどの性的マイノリティはもとより、あらゆるマイノリティには活動家なるものが存在し、商業的利益を得、政治的イデオロギーの発露の場として濫訴に及ぶ、というモノがある。

活動「家」というからにはその活動そのものを生業としているという偏見があるわけだが、あらゆる少数派・マイノリティの側からの権利擁護運動は営利目的ではなく、多数派の権利に比して自らの権利擁護度合いが低いのでその補填を求めているにすぎず、国を相手取った国賠訴訟でも原告に多額の慰謝料が認められる場合は少ない。

そもそも法廷闘争に係る費用と長い手間を考えれば「活動家」など存在せず、単に運動と言った方が正しいのであるが、保守派はそういった現実を認めず、マイノリティは常に営利と政治的イデオロギーに則って社会を攪乱させようとしているという、若干陰謀論めいた迷信が蔓延っている。