「活動家」は正当な権利を行使しているだけ

もちろん、あらゆる闘争や運動には政治的イデオロギーの濃淡があるのは認めるところではある。しかしことLGBTの権利擁護に際しては、イデオロギー以前に異性愛者と同等の権利を認めて欲しいという義憤のみが彼らを突き動かしているのであり、「法案(法律)が利用(悪用)される」どころか、単に自腹を切って正当な権利を行使しているに過ぎない。これを活動家などという事自体がナンセンスで、偏見の塊であり、極めて差別的な世界観である。

それを言うなら保守派は、多額の寄付を募ってかつて1万人を原告団としたNHK訴訟(2010年)や、2万5千人を原告団とした朝日新聞訴訟(2014年)を大々的に展開して、いずれも完全に敗北することになったわけだが、こちらの方が原告側の主張は無理筋であり、濫訴に値するのではないかと疑う。

つまり保守派は、辛辣に言えば自らと相いれない思想や趣向を持った人々の運動は「活動家」と蔑称し、自らの価値観に合致する思考のそれは「正義の運動」と定義しているに過ぎない。噴飯モノとはこのことではないか。

同性婚が「解禁」となった台湾でも社会は壊れていない

最後に、今次LGBT「理解増進」法案に反対した保守派には、この法案が成立するとゆくゆくは同性婚への道が(悪い意味で)広がる事を危惧する声が多数であった。この考えの根本は、1)で挙げた理由と全く同じで、戦時統制期以降に出来上がった社会規範の中にLGBTという要素自体が完全に欠落しているからに他ならない。

しかも彼ら保守派は、同性婚を認めると社会が壊れるとか、少子化が加速するなどと御託を並べているが、同性婚を認めようと認めまいとLGBTの総数は変わらないわけで、例え同性婚が日本で認められてもそれは現状の追認でしかないわけであるから、社会が壊れることもまた少子化が加速するという事もない。

現実的に世界の先進国では同性婚やパートナーシップ法案が整備されているし、隣国台湾でも同性婚が「解禁」となったわけだが、社会は壊れておらず、人口は増え続けている。これも単なる醜悪な差別意識を根底とした言いがかりである。

戦時統制期以降に形成された日本の、日本史の中で見れば異質な社会規範は、職能、つまり企業体を中心として政治力をもったコーポラティズム(市場社会主義)を形成した。特に日本型コーポラティズムは戦時統制の名残で株主利益よりも生産に重心を置いたので、その構成員には均質性が求められる。

欠品の少ない画一化された大量生産の結果、日本の鉄鋼、造船、自動車、そして半導体は90年代初頭まで世界市場を席巻した。そこでは、独創性や多様性というのは極力必要がなく、上意下達で、一定品質の製品を生産するため、均質化された職能構成員こそが最も優秀とされた。