「最終的責任」を取りたくない国や自治体

もっとわかりやすく言えば、緊急事態宣言において「休業しろ(休業命令/営業禁止)とはいっさい言明しておらず、あくまで『無観客でなら開場可能』であると言ったのだから、事業者が休業したり営業自粛したりしたとしても、それはあくまで事業者側の自主的な判断によるものであり、われわれは一切関知していない」と主張できる余地を残し、その後の事業者たちから結果責任を追及されることがあっても、究極的な責任は事業者側にあると強弁できる根拠を残しておきたいのだ。

国や自治体が現在行っている補償は、あくまで「道義的責任(≒温情)」として行っているものであり、憲法で国民に保障された基本的人権を公権力が制限・侵害したことによる「賠償」の名目で行っているわけではない——という建前を、かれらはなんとしても守り抜きたいという考えがあった。この1年間の感染対策においては、あくまで「自粛」「要請」という「お願いベース」の姿勢を徹底して守ってきたのは、この建前を潰さないためだ。

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全責任を負わずに済む「要請」という便利な言葉

感染対策のために国民の人権(移動の自由や経済活動の自由)を制限する「命令」を下してしまえば、それにともなう損害の補償は「義務」として国や政府に100パーセント課せられることになる。しかし、たとえ実質的には命令しているのと相違なかったとしても(今回の『無観客なら開場してもOK』はまさにそれだが)、明文化されている文言が「命令」ではなくて「要請」であれば、それにともなう損害の補償は「自己責任である」と突き放す文脈が生まれ、必ずしも100パーセントの責任を負うことが求められない。

今後のコロナ禍の状況次第ではさらに補償や経済政策を行う必要に迫られ、財政的に追い込まれてしまうようなことがあったとしても、しかし究極的には「あくまで皆さんの自主的な判断に委ねたのですから、すべての責任がわれわれにあるわけではないのですよ?」と言ってのけるためのとっておきのカードがまだ国や自治体には残されている。

この「切り札」を手元に残しておきたいからこそ、国はこの1年間にわたって、「命令」「禁止」など憲法上の人権侵害を行ったとする言質がとられうる表現をなにがなんでも回避してきたのだ。