さらに、こうした事件については、最高裁で開かれる裁判官の協議会や司法研修所で開かれる裁判官の研究会で最高裁の方針が示される(近年の原発訴訟については、批判を避けるために司法研修所の研究会というかたちがとられている。名誉毀損きそん損害賠償請求訴訟についても同様だ)ことが多く、この方針から外れた判決を書くには相当の勇気が必要だ。

おわかりだろうか? 隔離された閉鎖社会の中では、たとえ良心的な裁判官でも、みずからのこころざしを貫くのがいかに難しいかということが。

思い切った判決は将来を危険にさらすことも

私は、ある優秀な若手弁護士から、「みずからの良心を貫く判決のできる人〔これぞという重大事件についてそれがたとえ一度であってもできる人という趣旨〕の割合はどのくらいだと思いますか?」と尋ねられて、「5から15パーセントの間ぐらいかな。厳しめにみて5パーセント、甘めにみて15パーセント。でも、15パーセントは期待がこもっていてやはり甘すぎるね……。結論としては5ないし10パーセント」と答え、「私もそう思います」という感想を得た経験がある。

そして、本稿に記してきたような事柄を考えるなら、この数字はそれほど悪いものとはいえないのである。日本のような司法・裁判官制度の中にあっても、少なくとも20人から10人に1人の裁判長は統治と支配の根幹にかかわる事件でもその良心を貫いた判決をなしうる場合がある、ということなのだから。

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もっとも、そのような事件でたとえ一度でも思い切った判決をするには、自分の将来をある程度犠牲にする、少なくとも危険にさらす覚悟が必要である。実際、そうした判決後比較的早い時期に弁護士に転身して活躍しているような人もいるがそれは例外であって、定年前に退官してしまった人、判決後に自殺した人までいる。最後まで勤めても、そのころにはもう精神的に打ちのめされてしまって、あるいは厭世的になってしまって、退官と同時にそれまでの交際を絶ってしまうような例もある。

「あの人は退官直前だから」などと言ってはいけない

よく、退官直前にそうした判決を出した裁判長を揶揄やゆする言葉(「退官直前だからああいう判決ができたのだ」)を聞くことがある。しかし、そんなことはいうべきではないと私は思う。たとえ退官直前の判決であっても、陪席たちの将来のことは考えなければならない(陪席が比較的若い地裁であればともかく、高裁の場合、陪席たちも中堅以上だから、果敢な判決についてはリスクを負いやすい)し、退官後の付き合いのこともある。相当の勇気が必要な決断であることに変わりはないのだ。