正義の自粛警察が活躍する「現代社会」

最前に挙げた「GoToトラベル」にしても、「賛成派」と「反対派」の意見とで二分していました。否、日本ばかりではありません。海の向こうのアメリカでも、「トランプ派」か「バイデン派」かなどと、真っ二つに「分断」され、バイデン氏が大統領になるのが確実になった現在でも、いまだにトランプ派の選挙への不信感や不満がくすぶっているようです。

「自粛警察」なる言葉も流行りました。

感染予防の観点による行政側からの営業時間短縮などの自粛要請に応じない(と判断された)お店などに対して、「自粛しろ」などの貼り紙を貼ったりするなど軋轢を加えるというのですから、「自粛に応じる側(守っていると思っている側)」と、「応じていないと思える側(守っていないように見える側)」とのある意味「分断」であります。

一面的な正義感に駆られてしまっての行為なのでしょうが、とても世知辛い空気感が漂ったものでした。

写真=iStock.com/Ranta Images
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「GoToトラベル」しかり、「感染予防対策」と「景気浮揚対策」とがいわゆる「トレードオフ」になっているからでしょうか。いや、すべてを「トレードオフ」の概念に当てはめようとし過ぎて、ギスギスしちゃっているから、分断状態にならざるを得ないのかもしれません。

だからこそ、こんな時にこそ、落語に耳を傾けてみてはいかがでしょうか?

ダメ人間しかいない「落語の世界」

無論、落語なんか絵空事です。現実離れしてはいますが、それを産んだ江戸という時代は、現代のような「分断」基調のコミュニティではありませんでした。落語の登場人物たちのようなダメな人間しかいないようなのんびりしたコミュニティは、江戸の市井の人々の活写でもあり、それは分断とはかけ離れていた社会だったと推察します。

分断社会とは、言ってしまえば、自粛警察しかり、「マジメ」か「不マジメ」かの二元論社会のことです。

明治以降、この国は「優と劣」、「善と悪」、など「白か黒か」の二元論で発展してきました。西洋文明は二元論とはとても親和性があり、それに伴い工業化が浸透し、「優はOK、劣が×」という号令の下駆け足で先進国の仲間入りを果たしました。学歴社会がその労働力供給の下支えとなると同時に、そんな二元論を数値化し、可視化したものが偏差値としてさらに君臨するようになりました。

翻って、江戸時代は二元論とは真逆の「一元論」でした。

「善か悪か」とか「優か劣か」とかではなく、「善も悪も」、「優も劣も」、すべてを受け入れるおおらかさこそが一元論の世界観です。

落語は、そんな日本人が本来持っていた一元論の価値観を体現した誇るべき芸能ではないかと私は確信しています。つまり「真面目」とか「不真面目」とかではない、「非マジメ」なポジションからの視点だからこそ落語は面白いのではないかと。