六男松平忠輝は、母親の身分が低かったこともあり、生後すぐ家康に「捨てよ」といわれて養子に出され、のちに再会しても醜い風貌ゆえに嫌われていた。

七男松千代、八男仙千代ともに数え6歳で早世していた。

子沢山の家康だったが、将軍位をゆずれるのは三男秀忠しかいなかった。

そこで家康は、世継ぎの「保険」として御三家を創設する。尾張家を九男義直に、紀伊家を十男頼宣に、水戸家を十一男頼房に与えることで、もし秀忠直系に世継ぎが出なかったときに御三家のいずれかから候補を出せるシステムを構築。さらに目の上の瘤だった豊臣家を滅亡させたうえで大往生をとげる。

将軍位をゆずられた秀忠もまた、存命中に息子家光を三代将軍としたうえで大御所政治をおこない、父に倣った。

家康がレールを敷き、秀忠はそのレールをさらに伸ばして補強し、二代目としての役割を全うすることに、その生涯を費やしたといっていい。

家康と家光のあいだにはさまれ、評価の低い秀忠だが、家康は草葉の陰で大いに満足したことだろう。

それだけ家康の敷いたレールがいかに頑強だったかがわかる。

「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」(『東照宮遺訓』)の言葉を残した家康だからこそ、できたのだ。創業者は耐え忍んでこそ盤石な土台を築くことができる。