12時間遅れて留守番電話が着信

社長の吉田康宏(写真左)と工場長(気仙沼事業所部長)の今泉茂喜。今泉は気仙沼出身の48歳。インドネシア工場の立ち上げも経験している。

吉田の気持ちを切羽詰まったものにしたのは、12時間遅れて着信した気仙沼工場長からの留守番電話だった。

気仙沼工場長の今泉茂喜は、地震発生時に工場にいた。あまりの揺れの強さと時間の長さに「工場が潰れるのでは」と感じたという。揺れが収まると、すぐに従業員に「避難しろ、家へ帰れ」と命じた。あたりにはサイレンが鳴り響き、防災無線が大音声で「津波がきます。6メートルの津波がきます」と叫び続けていた。

今泉は、従業員に海沿いの国道ではなく、山の中の基幹農道を通って避難するように指示する。29人いた中国からの研修生には、そのまま避難所に指定されている山側の中学校に走るように言った。寮にパスポートを取りに帰る時間はない。

1人工場に残った今泉はシャッターやドア、門を閉めて、自身も山に向かって100メートルほど車で避難した。そこから海の方向を見ると、海と工場の間にある田んぼの地面が揺れ動いていた。目を凝らすと、海水が堤防を乗り越え、瓦礫や木材を波打たせて、田んぼを覆い、大きく巻く流れになり、押し寄せてくるのが分かった。瓦礫を浮かせた波が工場に迫ってくる。

さらに山側に700~800メートル逃げ、高台から、津波が工場をのみ込む様子に見入った。津波は2回に及び、予想を大きく超えて17メートルに達する。そのとき、社長の吉田に携帯電話をかけたのだ。もちろん、つながらない。やむなく留守番電話に伝言を残したが、何を言ったかは覚えていない。

それが、地震発生から30分経った3時15分ころのことである。今泉の恐怖の留守電は、半日経ってようやく吉田の携帯電話に届く。これが吉田が得た唯一の直接情報だった。

「もうだめだ」「車が流されている」「工場が津波にのまれた」

工場長の声は恐怖に震えており、何回も聞き直して、ようやく理解できたのは、このくらいだった。その工場長の安否さえわからない。

不安な気持ちのまま吉田は車を走らせ続けた。途中、ガソリンを入れるために3、4キロも並んでいる車列に惑わされたりもしたが、道は空いていた。

だが、宇都宮を過ぎたあたりから風景が変わってきた。変わるというよりも、真っ暗な闇のなかを走ることになったのである。

地震による停電で、周りの民家にも灯りがない。自動販売機も消えている。信号さえ点いていない。ほとんど行き交う車もなく、吉田の車だけが闇のなかを、北に向かって疾駆していた。

「ここは日本か、って思いましたね。灯りは自分の車のヘッドライトだけ。なんか、この世のものじゃなかった」

福島県に入っても暗闇は続く。何回かは迂回路を使った。仙台近くになっても、街の灯りはまばらで、被害の大きさが窺われた。しばらくすると、また漆黒の闇が訪れる。車内は、誰も声を出さなくなっていた。不安と焦燥に満ちた沈黙の時だけが流れていた。

(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(長谷川健郎=撮影)