師匠・梶山静六は「憲法改正」反対だったが…

国会議員になってからは、竹下(登)派の七奉行の一人で“武闘派”といわれた梶山静六を師と仰ぐ。

梶山も茨城県の農家の出身である。県会議長の時、田中角栄から国政への出馬を要請された。情に厚く、角栄がロッキード事件で逮捕され、保釈されたときは、「やくざだって親分が出所するときは迎えに行く」と、真っ先に出迎えに行っている。

梶山は、橋本龍太郎内閣で官房長官に就くが、1998年7月、参院選の敗北の責任をとり橋本が退陣を表明すると、総裁選に名乗りを上げた小渕恵三と対抗して、無派閥で出馬を表明した。

菅と佐藤信二が派閥を離脱して、梶山を応援するが、わずかな差で敗れてしまう。

梶山は見かけとは違って、「再び戦争を繰り返してはいけない」と平和主義を信念としていた。戦争中に長兄を亡くしている梶山の体験から生まれたものだった。

だが、菅は松田に、「梶山さんと俺のちがいはひとつあった。梶山さんは平和主義で『憲法改正』に反対だった。そこが、俺とちがう」といったそうだ。

両親は戦争の被害者であるのに、なぜ?

野中広務という政治家がいた。小沢一郎と死闘を繰り返した自民党の大物であった。

野中は若い頃の菅に目をつけていた。松田によれば、菅はかつて新聞記者に、「第二の野中広務さんのような政治家になりたい」と語っていたという。

野中も筋金入りの反戦・平和主義者であり、梶山と同じように、沖縄のことを真剣に考えた政治家だった。

「九七年には、沖縄米軍の基地用地使用を継続するための駐留軍用地特別措置法(特措法)改正案を可決する際、衆院本会議で声を震わせた。
『この法律が軍靴で沖縄を踏みにじる結果にならないように、私たち古い苦しい時代を生きてきた人間は、国会の審議が再び大政翼賛会にならないように、若い皆さんにお願いしたい』議場は騒然となる」(『影の権力者』)

田中角栄は常々、「あの戦争を知っている人間たちが政治家である限り、日本は戦争をしない」といっていた。

だが菅という男、恩師の梶山や野中の反戦・平和主義から学んでいないのはどうしてなのだろう。

たしかに、梶山も野中も軍隊経験をしている。菅とは20年以上の歳の差がある。だが、両親は満蒙開拓団の一員として辛酸をなめた、戦争の被害者である。菅はもうすぐ72歳になる。

後期高齢者間近い政治家が、わずか75年前の誤った戦争を二度と起こさない、仁王立ちしても止めてみせるという覚悟がなくて、何のために総理になるのか。