思想信条ではなく、否応なく政治について考えざるを得なかったはずなのに、菅は大学を卒業するまで考えていなかった。だとすれば、政治は就職先の一つ程度の認識だったのではないか。
失礼ついでにいえば、菅義偉という人間について多くの国民はほとんど知らない。あるのは、「令和おじさん」としての知名度しかないといってもいいだろう。
秋田県の貧しい農家の出で、集団就職で東京に来て、法政大学の夜間を出た苦労人政治家というイメージが独り歩きしているが、それは全く違うようだ。
ノンフィクション・ライターの松田賢弥『影の権力者 内閣官房長官菅義偉』(講談社+α文庫、以下、『影の権力者』)と、森功『総理の影 菅義偉の正体』(小学館ebooks、以下、『総理の影』)を基に、菅という男の人生を見てみたい。
ソ連軍による惨劇から命からがら逃れた
菅が生まれたのは秋田県雄勝郡秋ノ宮村という雪深いところである。県南部に位置し山形県寄り、横堀が最寄り駅だが、かなり離れている。
戦前、父親の和三郎は一旗揚げようと、1941年に中国・満州へと渡っている。いわゆる「満蒙開拓団」である。彼は「満鉄」に勤めている。その後妻を満州に呼び寄せ、娘も生まれた。
だが、終戦の年の8月、不可侵条約を破って攻め込んできたソ連軍による侵攻によって、和三郎のいた開拓団376人のうち273人が亡くなっている。しかも8月19日の集団自決だけで、死者は253人にのぼったと、森は、『総理の影』に記している。当時の満蒙開拓団の全在籍者は27万人だが、死者は7万8500人にもなった。
妻と幼い2人の娘と共に命からがら逃げてきた和三郎は、故郷へ舞い戻る。だが、今でもこの地方では、その悲劇を語ることはタブーになっているという。
義偉が生まれるのは引き揚げ後2年たってである。松田は『影の権力者』の中で、「雄勝郡開拓団の不幸な歴史については、菅はくわしくは知らなかった」と書いている。
知らないわけはない。満蒙開拓団の悲劇は、日本が中国を侵略したために起きたのである。二度とこうした悲劇を繰り返してはいけないといえば、憲法を踏みにじり、集団的自衛権を容認し、戦争のできる「普通の国」を目指す安倍政権とは真反対を向くことになる。
菅はそんなことを考えもしなかったのではないか。その一つを取り上げただけでも政治家失格である。