加賀屋の「おもてなし」がメディアで紹介されるとき、よく取り上げられるこんなエピソードがある。……女性宿泊客との会話の中で、亡くなった夫と一緒に加賀屋へ来たかった、という話を客室係が聞く。そこで担当の彼女はすぐさま調理場に頼み、夕食時にそっと陰膳を用意する――というものだ。

似た例はほかにも多くあると楠さんは語る。近隣の「あえの風」(グループのホテル風旅館)の支配人だったとき、彼女も次のような場面に出合ったと言う。

「結婚式に招待された男性のテーブルに、女性の写真が置かれていることに客室係が気づいたんです。聞けば昨年に亡くなられた奥様の写真で、花嫁の姿を一目見せてやりたかったという。そこで彼女は、花瓶に一輪の花を用意し、料理を2品ほど持ってくると、『奥様とどうぞご一緒に、今日の花嫁さんをお祝いしてあげてください』と言ったそうです」

こうしたマニュアルにはない心遣いを、加賀屋では客室係が自らの裁量で行う。

「何かに気づいたら、客室係は客室センターに直接電話をかけます。後は『花瓶は私が持っていくから、あなたは花を準備して』と裏でリレーですね。誕生日や還暦など、記念日の種類ごとに記念品を準備はしています。でも、それらは結局、客室係がお客様とのさりげない会話から察するしかないものです」(楠さん)

夕食時は1分1秒を争うような忙しさとなる調理場も含め、多くの従業員を巻き込む柔軟な対応は周囲の理解なくしてありえない。それが可能なのは、「お客様と接する客室係が、いちばんお客様のことがわかっている」という価値観が旅館全体に浸透しているからだろう。

真弓さんによれば、そんな加賀屋の“客室係重視”ともいえる経営方針のルーツは、先代の女将の時代にあるという。1906年創業の加賀屋は、もともと和倉温泉の小さな旅館の一つに過ぎなかった。そんな中で、サービスに対する姿勢を徹底させることで、宿泊客の満足度を上げようとしたのが先代だったそうだ。

「お客様のためなら富山までハイヤーを飛ばして銘酒を買いにいかせる。たとえ収支がマイナスになっても、お客様のためならそれをやる、という“精神”を先代は持っておりました」

加賀屋では当時から、「お迎えからお見送りまで」を1人の客室係が行ってきた。前日の酒席が遅くまで続こうとも、笑顔を崩さずにお客をもてなす。「朝早く歩いているのは、加賀屋の客室係のお姐さんと犬と新聞配達」と地元で言われるような直向きさが、加賀屋を年間20万人が訪れる大旅館へと発展させていったのである。

※すべて雑誌掲載当時

(プレジデント編集部=撮影)