具体的にはスバル1000の発売当時の価格は62万円。一方、トヨタカローラ(初代)のそれは52万5000円。10万円違うのならば、人は新規の技術よりもやはり価格で車を選ぶ。
百瀬は「あんな車は許せない」と怒った。
徳大寺も書いているが、名車スバル1000はわずか5年の命だった。売れないと判断した経営トップはスバル1000のデザインを通俗的にして、値段も安めに設定したレオーネという車にシフトするのである。
「みんなと一緒」だからこそ売れたのだ
あるOBは言った。
「スバル1000からレオーネに変わった時、百瀬さんはかんかんに怒っていました。『レオーネは堕落だ。あんな車は許せない』。もうチーフデザイナーを退いていましたけれど、百瀬さんは富士重工が他社の車と変わらないものを出すことを認めたくなかったんだと思います」
スバル1000よりも20年以上前、百瀬が叩きこまれた戦闘機の設計とはつねに先進技術を盛り込むことだった。
見た目よりも、スピード、旋回性能、機体の軽さなどを追求して、ライバルの飛行機を圧倒する。そうしないと撃墜されてしまうからだ。
百瀬はスバル360、スバル1000でも先進技術を盛り込むことを当然考えていた。彼にとって「いいクルマ」とは他の会社のクルマを圧倒するような技術の粋を集めたものだったのである。だからこそ、ふたつの名車が誕生した。
しかし、時代は流れていた。
モータリゼーションの時代のユーザーが欲しいクルマとは、性能が飛び抜けたものではなく、「売れている車」だった。
カローラ、サニーならばどこにでもある。みんなが認める車で、故障してもすぐに部品が交換できる。みんなが乗っていて、しかも、便利。
通俗的ではあっても、横並びではあっても、安心感があった。「みんなと一緒」だからこそ売れたのだ。
「アメリカの自動車会社が進出してきたら吹っ飛んでしまう」
スバル1000が出た1966年。日本の自動車生産台数はアメリカ、西ドイツに次いで、世界第3位の台数になった。
2年後には日本のGNPは西ドイツを抜いて、世界第2位となる。共産主義のソ連をのぞいて、敗戦国だった日本はアメリカに次いで経済力のある国にまで成長した。
同年の自動車生産台数は約206万台。これもまたアメリカに次ぐ数字だった。そうなると「敗戦国だから」と国内のマーケットを閉鎖しておくことなどとてもできない。
なんといっても第二次大戦に勝利したイギリス、フランスの経済を凌駕しているのだから、海外の車に高関税をかけたり、非関税障壁を設けることなど許されないのだった。
すでに1965年には完成自動車の輸入は完全に自由化されており、73年には資本の完全自由化が決まった。78年には乗用車の関税はゼロになっている。
1960年代の後半から日本の自動車業界は海外メーカーと同じ条件で競争していたのだった。