しかし、三菱自動車はこの頃、かつての勢いを失いつつあった。96年に発覚した米国子会社でのセクハラ事件で総額3400万ドルの和解金を支払い、97年には総会屋への利益供与事件が明るみに。追い打ちをかけたのが00年7月に発覚した大規模リコール隠しである。
信用は一夜にしてボロボロになった。自力で生き残るのはもはや困難と判断した経営陣は、ドイツのダイムラークライスラー(当時)の資本参加を仰ぎ、その傘下に入る。しかし、ダイムラーからの通達は「環境技術についてはすべてダイムラーで開発する。三菱は何もする必要はない」という一方的なものだった。EVの研究者は、他の部署へ次々に引き抜かれ、最後には吉田を含めてわずか11人しか残らなかった。
人もいない、予算もない、研究はやるなと言われる……悲惨な状況の中でも、吉田は諦めなかった。テストカーに「電池試験車」「モーター試験車」などと名付け、EVの試作車ではないように装い、ダイムラーの目を盗んで研究を続けた。
そして、04年、二度目のリコール隠しによる不祥事が起こった。走行中の欠陥トラックのシャフトが外れて死傷事故が発生し、ブランドイメージは地に落ちた。すべてを支配していたダイムラーは、それを機に関係を断ち切る。
三菱自動車は、いきなり着のみ着のままで寒空の下に放り出された格好となった。その後、三菱グループが救済に乗り出し、現社長の益子が三菱商事から「敗戦処理」のため送り込まれた。益子は「不祥事を繰り返したのは、自浄能力がなく自分たちで責任を取ろうとしなかったから」と危機感の欠如を痛感したという。そこで、生え抜きの相川とともに、三菱の持っている走りのDNAを前面に出し、ブランド再構築に取り組んだ。
「三菱の車はもう嫌だというお客様が大半で、イメージは最悪。それを少しでも引き上げるべく必死に考えた」(相川)
そんなある日、相川は現場の声を聞くために吉田と話す機会があった。
「走りだけではダメです。環境技術が入っていなければ」と吉田は言ったという。
ダイムラーからすべての技術開発を止められていた中、唯一残っていたのが、秘密裏に開発していたリチウムイオン電池を搭載した試作の電気自動車だった。
「とにかく乗ってみてください」という吉田の強引なラブコールで、相川はステアリングを握ってみた。
試作車を降りた相川はその場で言った。
「吉田、これでいくぞ」
※すべて雑誌掲載当時