2000年初頭、リコール隠しやダイムラーとの提携問題で一度は地に落ちた三菱ブランド。しかし、金融危機が業界を直撃した後、長年の希望を背負った電気自動車がにわかに世界へと走り出した。
90年代の国内市場における自動車業界の勢力構図は今日とはおよそ異なる。トヨタ自動車が1位に変わりはなかったが、2位が日産自動車、そして三菱自動車、ホンダ、マツダが三番手を激しく争うというものだった。その中で三菱は、多目的スポーツ車の「パジェロ」、3ナンバーセダンの「ディアマンテ」などヒット車種を連発させ、一時は当時の中村裕一社長が「(2位の)日産のテールランプが見えた」と発言するほど好調だった。
吉田がEV研究に関わるようになったのは、そんな絶頂期だ。当時、鉛電池を大量搭載したステーションワゴン型の「リベロEV」を発売したが、当時の価格は1123万円。
「環境性能は抜群によかったが、動力性能は抜群にダメでした」と吉田は笑う。
もちろん、市場に広く受け入れられることはなかった。EV開発の難しさを目の当たりにした吉田は、次に「ハイブリッドEV」をつくった。EVとして100キロを走り、その後は天然ガスエンジンで走るという、今風に言えば「プラグイン・ハイブリッドカー」である。
バッテリーは当時、携帯電話に使われ始めていた新鋭のリチウムイオン電池。まだ大型のものがなく、三菱グループから材料を調達し、携帯電話用の140倍もの容量を持つバッテリーを自前でつくった。それを60個直列につなぎ、モーターを駆動させるというものだった。
しかし、96年の1月2日、正月休みで旅行準備をしていた吉田のもとに米国の研究所から国際電話がかかってきた。
「向こうの技術者がいきなり『焼けました』って言うんです。何のことかわからず、『明けましたですか?』と聞き返したら『いえ、車が焼けました』と」
旅行を取りやめ、すぐ現地へ飛んだところ、誤って電圧の高い鉛電池用の充電器を使ったことが主因だと判明。こんなに簡単に燃えてしまうのか……電池の安全性を保つことの困難さに途方に暮れたが、そこで吉田の頭に、以前聞いたあるアドバイスが浮かんだ。
「おまえなあ、リチウムイオン電池を自分でつくろうとしているみたいだけど、電池メーカーを入れんとできんぞ」
声の主は、かつて吉田の直属の上司であった元副社長の谷正紀だった。電子技術開発などを担当、退社後は成蹊中学・高校の校長を務めたという異色のキャリアの持ち主だ。吉田は気を取り直して、後にユアサコーポレーションと合併してジーエス・ユアサコーポレーションとなる電池メーカー、日本電池(旧社名)と共同研究を行った。
99年12月には、バッテリー駆動で24時間に何キロ走れるかという世界記録に挑戦。米国のベンチャー企業が、無充電で1600キロという記録を打ち出していたが、吉田のチームはそれを上回る2142.3キロを走破した。ギネスブックにも登録されたほどの快記録だった。