「ウソの訴え」で大宰府に左遷された

ですから、仁明天皇の嫡流子孫である元良親王を皇太子にしようという動きがある中、醍醐天皇が時平の妹の入内を勧めましたが、宇多上皇は時平が外戚の立場を狙っているとして強く反対します。そして宇多上皇が自らの第三皇子であり、菅原道真の娘婿でもあった斉世親王を皇太弟(皇位を継ぐべき天皇の弟)に立てようとしているという噂が流れると、醍醐天皇は時平らと共に、宇多上皇から政治の主導権を取り戻そうとしました。

そうして時平が「道真が娘を嫁がせていた斉世親王を皇位に就けようと企んでいる」とウソの訴えを起こし、道真を太宰府へ左遷させてしまったのです。宇多上皇はこれを止めようとしましたが、内裏に入れず涙を飲みます。

雷に打たれる、泥沼に転落……怪死事件が続発

「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

道真はこの歌を詠み、遠い九州の太宰府へと向かいました。道真は2年後の延喜3年(903)、太宰府で没しました。ここから朝廷は道真の怨霊に悩まされるようになります。『北野天神縁起絵巻』などによれば、道真が死んでまもない夏の夜、比叡山の僧侶のもとに道真が現れて「怨みを晴らす」と告げたといいます。

そして立て続けに、怪死事件が発生します。延喜8年(908)、藤原菅根が雷に打たれて落命。翌年には時平が病死。延喜13年(913)には源光が鷹狩りの最中に泥沼に転落して溺死。さらに時平の妹と醍醐天皇の間に生まれた皇太子・保明親王が延喜23年(923)、満19歳で死去……。

次々と続く関係者の死に、人々は「道真公の祟りだ」と噂しました。醍醐天皇も道真を左遷させたことを後悔し、道真を右大臣に戻す詔を出して、その霊を鎮めようとします。しかしそれでも怪異はおさまらず、さらに衝撃的な事件が起きるのです。