グローバル化は「進歩」と呼べるのか
ここに、イギリスやアメリカやフランスのような政治の混乱の原因があります。民主制度では選挙の敗者は敗北を受け入れ、次の選挙に期待をかけるのがルールですが、それが機能しなくなってきています。そして、かつては、政治が経済構造を決定していたわけですが、グローバル化が進むなかで、これが急速に難しくなり、その逆転が起きつつあるといえるでしょう。
トランプ大統領を選出したアメリカの大統領選挙やイギリスのBrexitの国民投票が示すように、現在この分裂は拮抗(きっこう)していて、自分の陣営により多くの人を引き込もうとする綱引きの状態です。問題は、今後、「開いた社会」と「閉じた社会」、すなわちグローバル化と反グローバル化のどちらに向かうかにあります。
先進国で起きている反グローバル化の支持者は、グローバル化を「進歩(自分の意思でコントロールが可能)」と捉えているようですが、世界がここまで相互結合と相互依存を深める中で、支持者の望んでいる一国中心主義に回帰することは現実的には難しいと言えるでしょう。
つまりグローバル化は進歩ではなく、好むと好まざるとに関わらず、私たちに環境への適応を迫り、適応できなければ淘汰(とうた)される「進化」であると考え、自分はどのように環境変化に適応するかを考えた方が生存確率は高まるということです。
歴史から未来を予測する教育は通用しない
国家、企業・市場、個人の3者が鼎立する状況は、構造的に不安定です。つまりグローバル化という状況下では、均衡点は固定化せず、移動を繰り返す動的平衡によって維持されるので、予測が困難で、不可逆かつ非周期でパターン化が難しい非線形な思考が前提となり、これまでの分類、規範、常識が意味をなさなくなるということです。
この状況は、アメリカの覇権の下に始まった、覇権国家が国家の観点で均衡点を管理してグローバル化システムを安定化させようとする思考、つまり、決定論的な法則に従ってパターン化された結果が生じるという、これまでの線形的な思考の前提とは異なります。
この意味で、今現在進行するグローバル化は、当初のグローバル化とは非連続的なもので、「近代化が進めば、予見性は高まる」という、これまでの近代化のお約束がお約束でなくなる世界、近代化の終わりを迎えていると言えるでしょう。
つまり、歴史の連続性を前提に、過去の延長線で未来を管理することが可能であるとする歴史主義は、もはや通用しないと考えるべきです。したがって、読者のお子さんたちが、現在の歴史主義に基づく大学教育で学べるもののうち、将来にわたって利用価値の高いものは少なくなると考えるべきであろうと思います。