勉強だけは対等に渡り合えると信じていた
「女があんまり賢いと会社でも持て余すんだよ」
自分に直接投げられた言葉ではなくても、どこかで確かに聞いたことがある言葉ではないだろうか。
韓国では2016年に出版され、邦訳も発売4日で3刷りが決定した話題書『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房/チョ・ナムジュ 著、斉藤真理子 訳)の一節だ。
作中で、主人公の女性の先輩が学業も課外活動も学部トップの実績を持ちながらも、男子ではないために希望する企業への学科推薦をもらえないという就職差別に遭う。そのとき、説明を求められた大学の学科長が言い渡した言葉である。
子供の頃から、クラス名簿順は男子が先で、女子は後半。73年生まれの日本人の私だが、これは日韓で同じだったのだと、この本で知った。そんなことから端的に表される「女子はどこか2次的な存在」という刷り込みのある社会で育ちながらも、私たち「女子」は勉強して賢くなれる分野では体力や体格に関わりなく対等に渡り合えると信じてゴリゴリやってきたものだ。
「賢すぎるのは可愛げがない」という本音
でも、就職活動で、あるいは結婚や出産で世間の根っこの本音を知らされて、「なんだ、やっぱり結局そうなのか」「なんだ、女の子は勉強できたって、頑張ったって、だめなんじゃないか」と悔しい思いをしたことのある「女の子」がたくさん存在する。欧米で女性の解放が叫ばれた60、70年代を経てもなお、極東の国々には女の子に対する本音と建前が社会に深く濃く刷り込まれた「美徳」として存在したし、そんなダブルスタンダードは(ときにはそれがダブルスタンダードなのだとさえ気づかれず)いまも息絶えることはない。
女の子に「頑張れ」を言い聞かせて育てつつ、とある時期を迎えると途端に「そんな女は可愛げがない」「愛されないよ」「結婚できないよ」「子供がいない女の人って、何か欠けているよね」と手のひらを返し、退路を塞いで決断を迫ってくる。70、80年代生まれの女の子たちには、そんなふうにして大人の理不尽極まりない価値観に振り回された、と感じている人もいるだろう。