女性教諭の言葉に凍りつく

「女の子も頑張れ」「女の子だからこそ賢くなりなさい」と、その真反対の「女の子だから頑張る必要はない」「女の子は賢くなくてもいい」という言葉が、矛盾しているくせに平気な顔をして同居しているのだ。そしてそれは、社会の中だけではなく、当の女性の中にさえ矛盾しながら存在する。

韓国で100万部を超える大ベストセラーになり、日本でも重版を重ねる『82年生まれ、キム・ジヨン』。

私は、それぞれの時代に相当に頑張っていたであろう優秀な2人の中年女性から、「女子に教育をつけても仕方がない」という同じ言葉を、別の時代、別の意図、別のシチュエーションで聞いたことがある。

1度目は80年代半ば、中学受験指導に非常に熱心だった私の小学校で、6年生の女子クラス(その学校は、受験が近づく高学年になると男女別編成をとっていた)を担任していた女性教諭が、教壇からクラスの中で「できない」女子たちを何人か名指しして言ったときだ。「あなたたちは頑張らなくていいのよー。女の子なんだから、勉強なんてしなくていいの。楽しくかわいくしていればいいのよ」と、いつもの激しい魔女のような指導からは考えられないような猫なで声で発せられたその言葉を、私は凍りついて聞いた。

戦中に生まれ、苦学して私立4大を出ていたその女性教諭が、そんな言葉を意味通りに言うわけがなかった。女性教諭は、自分が「女のくせに、勉強なんかして」と言われる時代に少女時代を送り、だが教育で自分の人生を切り拓いた人だったのだ。その彼女が発する「女の子なんだから、勉強なんてしなくていいの」という言葉は強烈な皮肉であり、中学受験のプレッシャーの中で受かりたい、受からなきゃとゴリゴリ勉強していた女子集団にとって、見放されたという意味だった。いつもは魔女のように厳しく指導する教諭が、指導をあきらめた瞬間。自分自身が名指しされたわけではなかったけれど、「女の子なんだから、勉強なんてしなくていいのよ」は、まったく反意的に、それを言われたらおしまいなのだとして12歳の私の心に刻み込まれたのだ。