自分の半生を全否定する言葉

2度目は、1度目から20年後の2000年代半ば、子供の習い事関係で知り合った先輩ママだった。バブル世代の美貌の高学歴女性である彼女は、夫の仕事で子連れの海外赴任生活も経験していた多趣味な専業主婦で、当時の「ママ界」の価値観では羨望の的だった。明らかに能力が高く、リーダシップもある。でもそれを思った通りに開花したかった、自分のキャリアを築きたかったのにできなかったという葛藤が、どこかに感じ取れる人でもあった。

娘さんの受験が終わった頃、誰が聞いたわけでもないのに、こう言った。「うちの娘は勉強あんまりできないから、学校推薦で○○ってところに行かせたわ。知らない学校でしょう?」そして、まるで早くこの話を終わらせてしまいたいかのように早口でこう付け加えたのだ。「女の子に教育つけたって、何にもならないものね」。

でも私は、彼女が本当はどれほど子育てに真摯に向き合い、時間をやりくりして頑張って、家族のために日々を費やしているかを知っていた。「女だから、母親になったから、子供や夫のために尽くさなければいけない」「でも本当は、自分には十分な能力も想いもある」という彼女自身が抱えた葛藤と、そうやって悩みながらも大切に育てている子供が、決して思い通りには育たないという落胆。

そんなグルグルした気持ちをまとめて、自分の半生を全否定するように、彼女が自身に対して乱暴に言い放った皮肉な言葉を、彼女の本当の思いが想像できたがゆえに、私はとても哀しい響きで聞いた。

どちらにしても、女性をそのままでは受け入れない

「女の子だからこそ賢くなりなさい」と、「女があまり賢いと持て余すんだよ」の2つの価値観が、社会の中に共存するだけでなく、実は男性の中にも、実は当の女性の中にさえ矛盾しながら存在する。

そしてそのどちらの言葉も、「正義」なんかじゃないことに気づきたい。どちらの言葉も、目の前の女の子の「ありのまま」を否定し、今のままではダメだ、別の人間になれ、そのままのお前では承認してやらない、と脅迫しているのだ。私たちは自分たちに刷り込まれた脅迫と、この世代で決着をつけてしまわなければいけない。もうこれ以上、次の世代に渡していくことのないように。

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