開業後も順風満帆とはいきませんでした。最初はお昼の弁当販売から始めましたが、初日に売れたのは5個。2日目に至ってはゼロです。すでに私は財産のほとんどを費やしており、このままいくと毎月50万ルピー(当時で約100万円)の赤字で、半年後には運転資金が尽きる計算でした。

(上)現在も会長を務める「ミサキホテル」のプールサイドで、インド人の幹部たちと。(下)幹部たちとホテル内で打ち合わせ。

売れない理由はすぐにわかりました。同地区で勤務されている日本人の多くは工場内の食堂でランチを取っておられたのです。これは完全に私の調査不足。かくなるうえは他地域に住む日本人に来てもらうしかないと戦略を切り替えて、知り合いの日系企業トップに営業電話をかけまくりました。商社マン時代を含め、電話をあれほど大量にかけたのは初めてでした。

結果、お客様は増えましたがまだまだ赤字が続きました。黒字化するために、夜にも営業しようとお酒販売のライセンスを取ろうとしたのですが、これが最大の難関でした。インドで迅速にライセンスを取るには、高額な賄賂を払うのが一般的です。しかし、私は賄賂の支払いを拒否し続けたため、難癖をつけられて取得までに8カ月もかかったのです。

その後はおかげさまで上り調子で、現在、レストランは5軒に増えました。さらに71歳のときに現地のホテルオーナーから頼まれたことをきっかけにホテル事業にも進出しました。ただ、外国人である私がインドで自らホテル業を行うのは難しく、現在はインド人パートナーに経営を任せ、いまは会長兼株主の立場で関わっています。

定年後を考えた42歳の出来事

これまでとまったく異なる分野の飲食やホテル業でも何とかやってこられたのは、住友精神「熱心な素人は(怠惰な)玄人に勝る」という気持ちで事業展開したからでしょう。できない理由を探すのではなく、まずは走り出して問題が発生したらそのつど対応する。失敗したら諦めればいい。その覚悟でいたからこそ、70代にして新しいことに挑戦できたのです。

とはいえ、70代まで何も準備をしてこなかったわけではありません。

私が定年後を初めて意識したのは42歳のときです。新人時代の上司が定年のご挨拶にお越しになり、「楽しくて充実した会社生活だった。君も頑張れよ」と言って去っていきました。