たとえを変えながら「世の無常」を四度も繰り返す

平安時代が過ぎ鎌倉時代に入ると、「世の無常」は、いっそう本質的なものとして描かれていく。その代表は、何と言っても「平家物語」だろう。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵におなじ」

「平家物語」の冒頭の一節だ。名文として名高いが、そこでは世の無常が、たとえを変えながら四度も繰り返し表現されている。平家にゆかりの物語は、さらに後代に至っても世の無常を伝えている。織田信長が好んで演じたとされる「敦盛(あつもり)」がそうだ。

「人間五十年 化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を享け滅せぬ者のあるべきか」

一ノ谷の戦いで、平家の若武者平敦盛を討った熊谷直実が、出家して世をはかなむ中段後半のシーンの一節だ。人の世の出来事など、人の夢と同じで、儚いものだということだ。

小町の和歌も、平家物語も、敦盛も、いずれも「人生には良いことも、悪いこともある」だとか、「何事も経験だ」などとは教えていない。月が満ちたり欠けたりするのは、良いことでも悪いことでもない様に、人生の好転や暗転も、良いことでも悪いことでもない。それは起きるべくして起きる、そうとしか言いようのないものだ。そう教えているのである。

道長は「満月であること」をひたすら望んでいたのか

私たちは、目標を立て手段を選び、上昇を夢見、下降を恐れて生きている。目標を達成するために、日々、多大な犠牲を払っていると言ってもいい。それだから、うまくいくという暗示に喜び、報われないという暗示に心を曇らせる。大吉に喜び、凶に泣くのである。満月であることをひたすら望み、それゆえに、先んじて満ち足りた人を妬み、やっかみ、ときに傲慢だと思うことさえある。

私は、時々、こうした現代人の心は――つまり、一喜一憂する私の心は――古人のそれとは随分と離れてしまったと感じる。しかし、先月ほど、そうした思いを新たにしたことはなかった。というのも、11月の満月は、藤原道長があの有名な和歌を詠んでから、ちょうど1000年目にあたる満月だったからだ。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧たることも なしと思へば」

この和歌は、平安時代に権勢を誇った道長が、宴の席で、即興で詠んだものだ。この和歌が現代まで伝わったのは、当代一流の学識者だった藤原実資(さねすけ)が聴き取り、寛仁2年(1018年)10月16日の出来事として藤原実資日記(小右記)に書き留めているからだ。先月23日(旧暦の10月16日)の満月が1000年目の満月だと分かるのも、藤原実資のおかげだ。