謹慎中の2000年4月、早稲田大学第二文学部に入り、卒業後、続けて政治経済学部に進んだ。だが、06年春に中退した。東国原本人が述懐する。

「文学部で福祉に興味を持ち、レポートを書いたあたりから、社会とどうコミットするか、自分の中で問題提起ができた。次に政経学部で地方自治に傾注した」

文学部卒業の前、同じ都城市選出の宮崎県議の中村幸一(自民党。後に副議長)は知り合いを介して東国原から「選挙カーに同乗したい」と頼まれた。

「卒論を書くためという話だった。2~3日乗った。何もせず、後ろから見ているだけ。地方自治をやりたいと言っていた。その頃からその気があったのかな」

選挙出馬に傾くのはかとうかずこ(90年に結婚)と06年2月に離婚する1年くらい前だったようだ。現東国原英夫後援会会長の稲森忍が詳しい。

「相談があった。知事選の1年半以上前から宮崎市内にマンションを借りた。月に10日前後、帰ってきて県内を走っていた。07年の参院選か知事選を頭に置いていたら、知事選が先にきた。駄目だったら、参院選に行っていたと思う」

東京で学生仲間などで「チームそのまんま」をつくり、マニフェストはそこで作成したという。稲森が続ける。

「その後に知事選が近いとわかり、知事選用のマニフェストにした。だから、原本から大きく消去した部分があった」

北川らと連携して運動を展開するローカル・マニフェスト推進ネットワーク九州代表の神吉信之(福岡市在住)は、宮崎県の青年会議所から、知事選の前にマニフェストの公開討論会をと依頼を受けた。投票日は07年1月21日で、討論会は1月3日に宮崎市内のホテルで開催された。神吉が語る。

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驚異的な支持率の高止まり・・・・・・

「同じフォーマットを使って、それをベースに公開討論会をやる。候補者が全員出てきたが、自分のマニフェストを書いていたのは東国原さんだけだった。時間がなかったのと、宮崎はその土壌がなかったから、他の人は書けなかった。書いてくれと言ったけど、抽象的なことばかりでマニフェストになっていなかった」

ここが勝負の分かれ目になる。

「知名度は高かったけど、県民はどのくらいできる人かなと疑って見ていた。ところが、誰よりも熱心に訴える。アピールがうまい。マニフェストを使った公開討論会のお陰で中身があるというイメージが伝わった。それ以上に、中身を伝えようという姿勢がポイントだった」

マニフェスト戦略を体得したのは早大である。早稲田大学マニフェスト研究所をつくって所長となり、国民運動を展開している北川が解説する。

「早稲田でその大会を開く。私の正規の授業ではなく、聞けばその大会に頻繁に顔を出して感性と政策を磨いていた。どっちかというと、芸人として行き詰まっていたと思う。それで政治家をと思い、備えていたのが早大時代でしょう」

選挙では爆発的な「そのまんま」ブームが沸き起こり、圧勝となった。(文中敬称略)

(増田安寿、芥川 仁=写真)