なぜ商談を断るとき買い手が平伏するのか

むろん斟酌の中には腹の探りあい的側面もあるが、たぶん特徴的なのは商談不成立における遜(へりくだ)りだろうか。

お隣の大阪では「考えさせてもらいまっさ」が断りの言葉として有名だが、京都はもっと含みを持たせる。直截にダメ出ししないのは似ているが、彼らは「私のような者には勿体ない」と謙遜してみせるのだ。しかも拒絶の度合いが強いほど稲穂のごとく頭を垂れる。普通なら平伏するのは売り手のはずだが京都は逆なのである。

ビジネスなのだからダメなものはダメでいいじゃんという意見もあろう。が、ビジネスもまた、いやビジネスだからこそ京都人は血の通った人間関係として捉える。なので相手の気持ちを顧慮斟酌して遜るわけだ。

この現象は彼らの商売のスパンが長いことも理由だろう。100年前にお世話になったから、100年後にお世話になるかもしれないから遺恨なきよう慮る。嘘のような本当の話。

京都は老舗が多い。そのビジネスは過去と未来を背負っている。いまさえよければ……という利益至上主義では商いは長く続かない。京都人はプラグマティカルにそれを知悉している。老舗で買うという行為は、消費者もまたその店の過去と未来にかかわることにほかならない。ならばYesかNoか損得勘定のみで割り切れるわけがない。

譬えとしてわかりやすいので八百屋の話で続けてみよう。通常より飛び抜けて高ければ葱を買わないで帰るのは簡単だ。また、もしお店が顔見知りなら値切ることも可能だろう、けれど、上物を格安で買った【過去】を大切に思えばそんな足元を見るような真似はできない。と、京都人は考える。

同時に、そういうシチュエーションはより濃厚な情報が手に入るチャンスでもある。なぜ高いのかという解析、これから安くなるのかという推算、さらには葱でなく芹での代用の可能性など新たなビジョンの獲得に繋がるかもしれない。葱を諦めほかの安価な旬野菜を購買することで見過ごしていた季節=価値を発見することもできよう。それらの延長線上に【未来】がある。

老舗に限らず京都の面白いところはスーパーにも地産地消商品が多く並び、個性豊かな近隣の商店街は培ってきた消費者との絆ビジネスで地域に根を張り、かつその隙間には「加茂のおばちゃん」と呼ばれる農家直送のリヤカーや軽トラの振り売り(店を構えず、自ら野菜を運んで呼び売りする商売形態)がそれぞれバッティングすることなく共存してしまうところであろう。