被災地支援で思う、社長として何を?

3年後、大阪営業部の和歌山営業所へ異動する。和歌山はもともと国産材の流通拠点で、住友林業は国産材の商社として始まったので、早くから営業所があった。その後、外材の丸太の輸入基地にもなり、港近くに製材工場がたくさんできていた。ただ、船の積み荷を丸ごと受け、一度に1億円もの規模で工場に売る仕事は、本社の外材部がやった。営業所員は、製材品を買ってきて東京の小売店に売り、チップを集めてきて製紙会社に納めるなど、小さな商いを受け持つ。だが、のちには外材も扱い始め、大阪営業部へ移ってからは輸入丸太の担当もした。

89年4月、一度目のシアトル勤務が始まる。それまで海外駐在員は本社の外材部から出ていたので、珍しいケースだ。北海道と和歌山、大阪で、多様な分野の仕事を経験してきたことで、海外でも使えると思ってくれたらしい。シアトルでは、仕事を通じて、環境への配慮の大切さも学ぶ。

北米の原生林にはマダラフクロウの生息地があり、森林を伐採し尽す「皆伐」は絶滅の危機を招くと、環境団体などが裁判を起こしていた。マダラフクロウが原告となって勝訴し、米林野庁は92年に「皆伐」の影響を認め、いったん国有林の伐採を止めた。環境保護の厳しい情勢に、本社は欧州材の輸入体制づくりへ向かう。詳しくは次号で触れるが、その拠点づくりを、1人で切り盛りした。ここでも、与えられた地位や使命に徹し、「素其位而行」を貫く。

2010年4月に社長に就任。翌年3月11日、東日本大震災が起きた。東京・大手町の本社にいたら、ビルが大きく揺れた。テレビをみると、すさまじい被災状況だ。住宅事業では、大きな地震や自然災害があれば、必ず、その地域に住むお客に連絡をとり、安否を確認する。土砂崩れや浸水などがあれば、後片付けや掃除を手伝い、建物に傷がつけば補修する決まりだ。だが、このときは、あまりに激しい地震で、大津波もあって、すぐには状況がつかめない。

まずは対策本部を立ち上げ、社員の安否を確かめ、泊まり込む。翌日、トラックに救援物資を積んで仙台へ派遣した。経験のない被災規模で、対応は簡単ではない。ただ、仮設住宅の建設は、業界団体が受け皿となって各社の分担を決め、それぞれのやり方で対応した。プレハブで建てたところが多いが、住友林業は「会社の象徴」と言える木材で建てた。

同時に、依頼を受けて翌月にプロジェクトチームを結成し、「奇跡の一本松」「希望の松」と呼ばれた陸前高田市の海岸に残ったマツに、接ぎ木や種子分野の技術を駆使し、苗を21本育てることに成功する。そこから後継樹が増え、必ずや松原が再生すると、日本中から、海外からも、喜ばれた。

ここでも「素其位而行」を貫いて、ひたすら「社長として何をすべきか」を考え続けた。今回の熊本地震への対応でも、同じだ。

住友林業社長 市川 晃(いちかわ・あきら)
1954年、兵庫県生まれ。78年関西学院大学経済学部卒業、住友林業入社。89年シアトル出張所課長補佐、95年海外部次長(アムステルダム駐在)、96年シアトル出張所長、2002年国際事業部長、07年執行役員経営企画部長、08年取締役常務執行役員。10年より現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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