だが斉彬の急死により、西郷の人生は大きく変わる。

安政の大獄を頂点とする尊王攘夷派の弾圧のなかで僧月照と投身自殺をはかって西郷だけ蘇生。藩命により奄美大島に潜伏する。藩主島津忠義の父久光が公武合体運動に着手するや呼び戻されるが、その久光と対立して流罪に。徳之島、沖永良部島で流人として暮らす。

38歳で赦免されてからの「人生遅咲き」西郷の活躍はめざましいものがあった。一気に噴き出すかんじだった。

禁門の変で薩軍を指揮し、第一次長州征伐では参謀に起用され、大久保利通とともに薩摩藩を代表する政治家となる。

坂本龍馬らの斡旋で長州の桂小五郎(のち木戸孝允)と同盟を結んでからは討幕運動の先頭に立って奔走。公家の岩倉、大久保とともに王政復古のクーデターを成功に導く。

戊辰戦争では東征大総督府参謀となって江戸入り。勝海舟と会談して江戸無血開城願いを聞き入れ、江戸を戦火から守った。西郷の人柄をよくあらわしたエピソードだ。

――「江戸幕府」という旧体制を壊し、新たに近代国家を築く。

この信念において西郷は不動だった。揺るぐことはなかった。それが西郷にとっての「正」と「義」だった。結果的に敗れはしたものの、西郷の姿勢を日本人は忘れない。

いまの世の中、ともすれば「結果がすべて」とされる。もちろん結果も大事。だが、結果がどうであれ、みずからの「正」と「義」を貫く大切さを忘れてはならないのではないか。

歴史を動かすのも「人」。社会を動かすのも「人」。「正」「義」を貫くのもまた「人」だ。「正」も「義」も、西郷が好んだ「敬天愛人」思想のうえにある。これもまた、忘れてはならない。