幅広く活躍される養老先生のことだから、教養はムダにはならないが、東大の教授をされていた頃はどうだったろう。医学部の解剖学教室の業務に、あの幅広く深い教養は、直接は役に立たなかったに違いない。

世の中には、案外、養老先生のような、オーバースペックな方があちらこちらに隠れているような気がする。あなたの職場や、知り合いにもいませんか? オーバースペックな人たち。私は、その人たちの潜在能力に大いに注目したいのである。

養老先生のように、オーバースペックな能力を具体的に活かす道を選ばないとしても、その人がいるだけで、周囲に良い影響を与えるということが実際にあると思う。

「あいつ、あんなにもの知っていて、すげえなあ」という驚嘆の心。それが、人間の能力というものに対する「青天井」の認識を開いてくれる。

オーバースペックな人の教養は、いつどこで「ドット」と「ドット」を結ぶイノベーションにつながるかわからない。1つのことを極めている人だからこそ、見えてくることがある。

オーバースペックな能力は、決して、役に立たないのではない。それは、役に立つ日が来るのを待っているのである。いわば、いつ当たりになるかわからない宝くじのようなもの。しかも、有効期限はない。

オーバースペックな人は、さわやかである。その能力は、短期的な実用のためではない。学びの本来の姿がそこにある。

オーバースペックな人をつくる教育は素晴らしいと思う。オーバースペック万歳!

(撮影=小原孝博)
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