「座長と言われても、私以外はみなベテラン。座長らしいことはできていません。でもチームの結束力は固いです。初演のときも男優たちと『師範』役を決めて、みんなで筋トレやピラティスで鍛えました。わーっと飲みにいったり、汗臭い体育会系のチームです。男も女もなく、みんながひとつになってつくり上げる雰囲気が好き。一人ではできないですからね」

妖艶な悪女を演じながらも「サバサバしている」「男まさり」と言われる米倉には、ひと作品ごとに必要なスキルを体で身につける芸熱心なところがある。アルゼンチンタンゴを習ったり、アクションシーンに備えて、「交渉人」ではイスラエルの護身術を習った。


明治座の正面入り口で行われたフォトセッションでは、総額1億円という衣装も話題に上った。写真提供=オスカープロモーション

米倉は来た道を振り返ると「ラッキーだった」と言う。しかし「幸運」は人に、その重みに堪えるだけの努力や強さを要求する。モデルから女優宣言をして10年。「幸運」な道のりは決して平坦ではなかった。米倉は33歳の今日まで3度のキャリアチェンジをしている。

4歳からバレエ教室に通い、小学校からコンクールに出てプロを目指す研鑽を積む。週3回のレッスンに1時間半かけて通う小中高時代を過ごす。米倉の肢体の動きの美しさ、抜群のプロポーションは、日々アスリートのように鍛錬したこの時期がベースなのだろう。

途中、第6回全日本国民的美少女コンテスト(1992年)で審査員特別賞を受賞。キャンペーンガールに選ばれ、雑誌のモデルとしても活躍し始める。

「切手大の写真を1日に150カット撮るのがモデルの仕事。キャンギャルにもなり、時間が足りなくて、物心ついてから初めてバレエを1年休みました」

レッスンに埋め尽くされた日々から解放され、初めて「キラキラした青春」を味わったのが、このモデル時代。しかし1年後バレエに復帰することはなかった。

「一番踊れたときの自分を知っているだけに、体を思うように動かせないことが悔しくて……復帰するのが怖かった」

バレリーナは毎日体を動かさないとダメになる。1年のブランクは大きかった。

「あのときバレエに戻っておけばよかったというのが人生最大の後悔。戻っていれば、ミュージカルのレベルも上がっていたし、メンタル面も鍛えられたと思う」