モーツァルトの代表作「レクイエム」は全14曲からなる。そのうち、モーツァルトが自ら完成させたのは最初の1曲だけだ。声楽家であり、YouTubeチャンネルでクラシック音楽や声楽について解説している車田和寿さんは「他の曲は重要なソロや第一ヴァイオリンなどの断片的なスケッチが残されているだけだった」という――。

※本稿は、車田和寿『涙がでるほど心が震える すばらしいクラシック音楽』(あさま社)の一部を再編集したものです。

オーストリア・ウィーンにあるモーツァルト記念碑
Emmanuele Contini/NurPhoto/共同通信イメージズ
オーストリア・ウィーンにあるモーツァルト記念碑(=2024年4月4日)

最後の協奏曲「クラリネット協奏曲KV622」

クラリネット協奏曲はモーツァルトが亡くなる年である1791年に作曲されました。モーツァルトは数多くの協奏曲を作曲しましたが、これがモーツァルトにとって最後の協奏曲であり、クラリネットのための唯一の協奏曲でもあります。

この曲が書かれる約2年前、モーツァルトは友人でクラリネット奏者のアントン・シュタードラーのためにクラリネット五重奏という室内楽曲を作っていますが、これも同じく彼のために作曲されました。

初演はモーツァルトが亡くなった後、シュタードラーのヨーロッパツアー中に行われます。クラリネットは当時まだ新しい楽器で、様々な改良が加えられようやく形が定まりつつありました。そのため当時はバセットホルンやバセットクラリネット、クラリネットなど、それぞれ管の長さや形の異なる楽器が、曲の調や雰囲気に合わせて用いられています。

シュタードラーはクラリネットの中でもより低音が出るバセットクラリネットやバセットホルンを得意としていたと言われています。モーツァルトはシュタードラーの演奏に対して「あなたの演奏ほど、クラリネットが人の声に近づくことができると思ったことはありませんでした。あなたの音は柔らかくて繊細で、心がある人だったら、あらがうことはできません」と手紙で記しています。

人間のさまざまな面を許す「優しさ」がある

モーツァルトはクラリネット五重奏を書く前に、バセットホルンのための協奏曲作りに取り掛かります。しかしそれは途中で止まっており、後に書き上げた部分をほぼそのまま使用してクラリネット協奏曲に書き直しました。そして亡くなる約1カ月前に完成したのが現在知られているクラリネット協奏曲です。

クラリネットはリードが一枚の木管楽器ですが、その優しさと温かみ、さらに少しばかりの憂いを持ち合わせた音色が特徴です。音域もすでに登場していたフルートやオーボエと比べると約1オクターブ低音側に伸びており、一つのフレーズの中で低音から高音までを駆け上がるような箇所が多く見られます。

そんなクラリネット協奏曲には晩年のモーツァルトの特徴がよく表れています。その音楽はより一層透明感が増し、聴く人を優しい気持ちにさせてくれます。本書の「フィガロの結婚」でも触れたように、オペラの中には浮気者もいれば、ちょっぴり悪いことをしてしまう人物も登場します。モーツァルトはそのような人々の感情を決してモラル的にジャッジすることなく、それも人間の一面だというような感じで、正直な音楽を付けるのです。

おそらくモーツァルトは人間が大好きだったのでしょう。その音楽にはなんでも許してしまうような優しさがありました。

非常に優しい満足感に包まれた音楽ですが、そこには、その人が人生の中で経験してきた苦悩や悲しみの影がわずかに感じられます。そのような経験を受け入れて、ようやく得た満足感が味わえます。だから人に優しくなれる、そんな音楽です。似たような性格を持った、「クラリネット五重奏曲」と共にぜひ聴いてほしい1曲です。