作家・大田南畝の日記には誰袖と宗次郎と蔦重の名前が

それは同日記の2月9日の項目。この日も南畝は狂歌師の朱楽菅江や宗次郎らと共に「北里」に遊んでいますが、花を観た後に大文字屋の妓楼に登っています。大文字屋で宗次郎らは遊女を呼ぶのですが、その1人が「誰袖」でした。同日記には誰袖を「土山氏の狎妓こうぎ」とあります。誰袖は宗次郎の馴染みの女・可愛がっている芸妓という意味です。

鳥文斎栄之画「太田南畝肖像画」、江戸時代後期
鳥文斎栄之画「太田南畝肖像画」、江戸時代後期。渥美国泰『太田南畝・蜀山人のすべて』(里文出版)より(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

菅江や南畝もそれぞれ遊女を呼び楽しんだとのこと。大文字屋で遊んだ後に南畝と菅江が訪れたのが「書肆耕書堂」でした。「書肆耕書堂に宴す」とありますから、重三郎らと酒盛りをしたのでしょう。宴会後、耕書堂が呼んだ「肩輿」(駕籠)で南畝は家に帰りました。南畝が重三郎とどのような会話をしたのかまでは書かれていませんが、もしかしたら誰袖の話も出たかもしれません。

北尾政演(山東京伝)画『吉原傾城新美人合自筆鏡』には版元として蔦屋重三郎の名が載る
北尾政演(山東京伝)画『吉原傾城新美人合自筆鏡』には版元として蔦屋重三郎の名が載る(出典=国立博物館所蔵品統合検索システム

宗次郎は蝦夷地に詳しく、上役の伊豆守に上申書を書く

さてこれまで書いてきたことだけ見たら、宗次郎は飲んで遊んでばかりの人間のように思われますが、そうではなく、彼は幕閣切っての蝦夷地えぞち(現在の北海道)通でもありました。そして彼の上役は勘定奉行の松本伊豆守秀持。秀持は当初、百俵五人扶持の御家人でしたが、財政に明るく、勘定組頭・勘定吟味役そしてついには勘定奉行にまで昇進した人物です。老中・田沼意次(渡辺謙)の腹心でもありました。