企業の大卒者一括採用は明治期、およそ130年前から始まった。企業組織を研究する菊地浩之さんは「当時から人気トップ企業だった三井物産は、一般的な選抜も行っていたが、縁故採用も多かった。いずれにせよ、最終的には面接での態度で採用が決まったようだ」という――。

※本稿は菊地浩之『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』(角川新書)の一部を再編集したものです。

三井物産もオフィスを構えていた日本橋室町の三井本館
撮影=プレジデントオンライン編集部
三井物産もオフィスを構えていた日本橋室町の三井本館(1929年開館)、東京都中央区、2023年

三井物産社長を経てNHK会長となった池田芳蔵の「就活」

約90年前の三井物産の採用実態について述べていこう。

「1934(昭和9)年に慶応大学を卒業して三井物産に入社した矢野成典(元三井物産ロサンジェルス支店長)氏が以下のように述懐している(中略)

昔の商社は、採用した社員を次の4段階に分けているところが多かった。

①大学卒業生
②高商卒業生
③商業学校卒業生
④現地店採用」

(『三井物産人事政策史1876〜1931年』)。

本来ならば、この4分類に従って採用の実例を紹介したいところだが、③商業学校卒業生は見当たらなかったので、残りの3つについて見ていこう。

まず、①大学卒業生では、1936年に東京大学経済学部を卒業し、戦後に社長となった池田芳蔵(1911〜2001)の証言がある。

東大生でも「10単位以上が優」という条件だった三井物産

「私が三井物産に入社したのは昭和十一(1936)年の春であった。此の年は丁度2・26事件の勃発で物情騒然であったが、卒業試験中の或る日、経済学部のアーケードに三井物産から十名位採用予定の表示が出た。優が十以上見当という条件のようなものがついていたが、どうやらその資格があったので、時の経済学部長、土方成美先生(女優・小沢真珠の曾祖父)に御相談したところ、M・B・K(三井物産株式会社)はN・Y・K(日本郵船株式会社)やY・S・B(横浜正金銀行。のちの東京銀行)と並んで日本が生んだ世界的な大会社だ。受けてみ給えと御賛成を得たので願書を提出することにした。

入社試験は型通り書類選考から始まって、人事係の人に依る面接があり、之等をパスした者達が経営の責任者である役員との最終的面接試験を受ける仕組みであった。当時井上治兵衛氏が取締役会長、代表取締役に田島繁治(繁二の誤り)氏、常務取締役が向井忠晴氏であったが、どうやらここ迄漕ぎつけた私が最初に面接した仁は田島氏であり、その次に、向井さんだったと記憶している。

田島さんは血色と色艶の良い顔をした紳士であり、話し振りも極めてビジネスライクで、主として私が専攻した学科の一つ外国為替問題について文字通り膝を交えるような貌での活発な質疑応答があった。そこへゆくと最後に会った向井さんは一寸感じが違っていた。役員室のドアを開けて私が這入ってゆくと、窓を背にして大きな机の向こうの椅子に埋まるようにして座っていた小柄な白皙の顔にキラリと光る眼がこちらを見た。窓から入る日光で逆光の所為もあったと思うが、その時私はこの人物の周辺からほのぼのとした光が立ち昇っているような気がした。何しろ五十年近い昔の話であるが、この事が鮮かに印象に残っている」