福島第一原子力発電所の事故から14年がたった。いまだ日本は「原発推進」と「脱原発」で揺れている。東京新聞元編集局長の菅沼堅吾さんは「2023年、再稼働に慎重だった原発政策を180度転換する法案が成立した。そのウラには一人の大臣の存在があった」という――。
福島第一原子力発電所の北側からの空撮写真
写真=iStock.com/EyeEm Mobile GmbH
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福島第一原発事故で官邸から漏れた本音

2011年3月11日に起きた東日本大震災と東電福島第一原発事故は「国難」と言われ、誰もが原発に「絶対安全」はないことを知りました。では、これからどうするのか。

東京新聞は「脱原発」の旗を掲げましたが、安倍晋三首相の下で国は「原発回帰」にかじを切り、事故から14年後の今年、原発の「最大限活用」を“宣言”しました。「老朽原発」の延命などで、「脱原発」の未来を封印したのです。事故の恐怖を、「原発安全神話」に対する反省と教訓を忘れたとしか思えません。

原発事故の当時、私は編集局次長として東京本社で指揮を執る立場でしたが、それでも事故の影響による「死」を漠然と意識しました。3月16日の朝刊1面トップの見出しは「福島第一制御困難」。官邸内の情報源から政治部の記者が聞かされたのは、原発は「制御不能」であり、「家族だけでも東京から避難させた方がいい」という助言でした。

事故現場で指揮を執った福島第一原発の吉田昌郎所長(故人)は「東日本壊滅」をイメージしたと証言しています。東京新聞の原発事故取材班によれば、回避できたのは津波の海水が敷地内の立て坑に残り、冷却水として使えたなどの偶然、幸運が重なったからです。一度暴走を始めた原発を止めることは誰もできませんでした。

東京新聞は「原爆忌」の8月6日朝刊1面に「原発に頼らない国へ」と見出しを付けた論説を掲載し、「脱原発」の姿勢を明確にしました。国難の時ほど、立ち位置を明確にすることが読者の信頼につながると判断したのです。

なぜ「脱原発」は難しいのか

私も議論に参加しましたが、「人の命と安全は経済性に優先する」という普通の人が当たり前に思うこと、常識を「脱原発」論の根幹に据えました。原発が稼働していなければ事故は起きません。

日本が4枚のプレート上にある世界有数の地震大国であることや、使用済み核燃料、いわゆる核のゴミの行き場がないこと(原発は「トイレのないマンション」に例えられています)、実効性が保証されていない避難計画も「脱原発」を掲げた理由です。「原発安全神話」作りに東京新聞も大なり小なり加担しており、その後悔も「脱原発」につながっています。

「脱原発」が険しい道であることは分かっていました。原発は単なる発電所ではありません。経済産業省など国の各省庁、付随する天下り団体、電力会社、原発メーカー、ゼネコン、立地の自治体、研究機関、政治家などで構成される原発推進勢力による「国策プロジェクト」であり、兆単位のお金や万単位の人が絡んでいます。

論説では「日本は持ち前の技術と結束力で、原発がなくとも豊かな社会が築けるというモデルを世界に示すべき」と主張。別の紙面では各省庁の自然エネルギーの関係部門を集めた「自然エネルギー庁」を新設するなど、「脱原発」という新たな「国策プロジェクト」に挑戦することを提案しました。「原発推進」の旗を降ろすことで、代替エネルギーの技術開発が加速することを期待したのです。