「くん」付けで呼ばれてきた代償
あくまでも民事の、私人のあいだでの「トラブル」である以上、中居氏に対して、「説明責任」を求めるのは、酷だろう。2011年の芸能界引退に際して記者会見を開いた島田紳助氏と、中居氏を比べるのも、事案の性質に鑑みると、無理があろう。
仮に中居氏が記者会見を開いたら、袋叩きや吊し上げの場になりかねず、今度もまた「公開処刑」になるのは、火を見るより明らかである。
いま私が書いているこの文章では、「中居氏」と書いているものの、これまで「中居くん」と呼ばれ、親しまれてきた。「中居くん」という、フラットで気楽な存在として、老若男女に愛されてきた証ととらえられる。
社会学者の太田省一氏が『中居正広という生き方』(青弓社、2015年)で指摘するように、テレビ番組の「MCをしているときの一瞬の素のしぐさや表情、それもまた中居正広のMCの代えがたい魅力」(同書53ページ)だった。
「中居くん」の「素のしぐさや表情」は、お茶の間を和やかにするのみではない。太田氏によれば、中居氏のMCとしての特徴は「自分が相手を支配するような関係に持ち込まない」(同書56ページ)ところにある。
身近で、誰からも愛され、「素」を見せ、主従関係をつくらない。中居氏が売りにしてきた要素は、今回の「トラブル」で、オセロを裏返すように、すべて反転してしまった。「くん」付けで呼ばれてきた代償を、すべて一度に払わねばならなくなったのである。
だからこそ、記者会見か否かにかかわらず、自分のことばで、本音を残してほしかった。
「謝罪」の意味はどこに?
評論家の中森明夫氏は、中居氏に向けて「今回の被害者の女性に対しても文書によるコメントではなく、顔を出してあなたの肉声で謝罪するべきだと思います」と呼びかけている(「SMAPの夢は終わった 中居正広はテレビで謝罪すべきだ」『サンデー毎日』2025年2月2日号)。
私は、そうは考えない。
どれほど中居氏がテレビカメラの前で謝罪しようとも、そこに本心がなければ、何の意味もないからである。
実際、芸能人による「謝罪」は、とても難しい。
企業や行政といった組織であれば、法令違反があったり、不正があったりしたときに、謝るポイントは明確になる。責任の取り方もまた、トップがやめるのか、あるいは、当事者が責を負うのか、多くのケースで、見えやすい。
対して、芸能人が、何らかの「トラブル」を受けて「謝罪」するときは、事情が異なる。なぜ、何を、誰に、どのように、いつ、どこで謝るのか。見極めが困難になる。その意味が問われるからである。