深夜営業が奏功したが…

「もうダメだ、店がつぶれる」

家賃や給料を払えない苦しい状況が続いた。「どうにかしなければ」と出前をはじめようとしたものの、ノウハウも人手もない。簡単には手を出せなかった。それでも生きていくために稼がなければならない。

苦悩の末にはじめたのが、深夜営業だ。20時までだった営業時間を深夜0時まで延長。その策が功を奏し、23時40分になると近隣のバーから引けたお客さんやホステスさん、芸者さんが来てくれるようになった。

1日の売り上げが1万円台になり、どうにか最低限の生活ができるようになった。これでひと安心かと思われたが、そうではなかった。酔っ払いのお客さんに悩まされるようになったのだ。そばを味わうどころか「こっちは金を払っている客だぞ」と文句をつける人もいて、言い返したいのをグッと堪えながら低姿勢で接する日々。通常の営業時間のお客さんは相変わらず増えないままで、阿部さんは頭を抱えた。

「お客さんに反発なんてとてもできない。言ってみれば僕はよそ者なわけですよ。だから柏の地で定着するためには、お客さんに喜んでもらえる店、また来たいと思ってもらえる店にしなきゃいけなかった」

昭和40年代と昭和50年代の品書(アルバムより)
筆者撮影
昭和40年代と昭和50年代の品書(アルバムより)

1年間の休業中、手打ちそばを学ぶ

頭に浮かぶのは「どうしたらお客さんが来てくれるのか」「どうしたらお客さんに喜んでもらえるのか」ということばかり。阿部さんは、そばの道で生きていくための勉強を本格的にはじめた。

「全国のいろいろな名店を回って食べ歩きをしました。『○○に面白い店がある』『あそこの店は評判がいい』と聞けば、すぐに飛んでいきましたよ。そして、その店の優れているところを見つけるんです。子ども頃は勉強なんてしなかったけどね」

「人と同じことはやりたくない」という気持ちも強かった阿部さんは「手打ちそばをやってみよう」と考えはじめる。当時、東京のそば店はほとんどが機械打ちだった。手打ちにすれば、そばの味がよくなり、お客さんが増えるかもしれない。阿部さんはベニヤ板を買って見よう見まねで手打ちを覚えたが、やはりきちんと習いたいと思うようになった。

ちょうどその頃、願ってもないチャンスが訪れる。柏駅前の再開発で、店の前にある道を拡張する話が持ち上がり、店を移転する必要が出てきたのだ。工事の影響で1年間休業しなければならない。

阿部さんは、これ幸いとばかりに空白期間を利用して武者修行に出ることにした。食べ歩きがきっかけで知った練馬のそば店で2カ月、板橋のうどん店で1カ月住み込みで働き、そばとうどんの打ち方を一から学んだ。