百合子さま「斂葬の儀」、喪主は孫の彬子さま

2024年11月15日、三笠宮妃百合子さまが101歳で薨去された。葬儀にあたる「斂葬の儀」で喪主を務めたのは、彬子さまだった。8年前、2016年11月4日に営まれた、故・三笠宮崇仁さまの葬儀でも、彬子さまは喪主代理だった。さらに、その4年前、2012年6月6日に、彬子さまの父・寛仁さまが亡くなった際も、喪主は彬子さまだった。

彬子さまの母・信子さまは、これまで3度も喪主に目されながらも、ほとんど、その姿をあらわしていない。

信子さま
信子さま(写真=防衛省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

また、宮内庁が2025年度予算の概算要求にあたって、同庁の分舎(東京都千代田区千鳥ヶ淵にある旧宮内庁長官公邸)を総額約14億円かけて改修する計画が明らかになっている。これは、本来なら三笠宮家が住むはずの赤坂御用地の外で、これからも信子さまが暮らしつづけることを意味している。

三笠宮家のなか、というよりも、信子さまと、そのほかの皇族とのあいだの、すれ違いには、長い経緯がある。1980年の寛仁さまと信子さまのご成婚、その10年後の、寛仁さまによる食道がんの公表のころまでは、「おしどり夫婦」として知られていた。

しかし、2004年に信子さまは更年期障害や胃潰瘍と診断され、2年あまりにわたって軽井沢の別邸での療養生活を過ごした。このころから夫婦のあいだには、大きな溝ができていたと言われている。その後も夫婦関係は修復できず、信子さまが、いまも住まいとする宮内庁分庁舎で別居していると、2009年秋に明らかになった。

夫婦仲だけではない。信子さまと、彬子さまの確執は、より深くなる。

『週刊朝日』が報じた“事件”

2016年7月には、彬子さまの留守中に、信子さまが、東京・赤坂御用地の三笠宮東邸(旧・寛仁親王邸)を訪れた。鍵を持っていなかった信子さまは、同行させた業者に鍵を開けさせ、中にある荷物を持ち帰ったという「事件」が起きる。

同年10月21日号の『週刊朝日』は、この経緯を詳しく報じた上で、「母娘の愛憎劇に、体調を崩している三笠宮両殿下もさぞかし胸を痛めているに違いない」と結んでいる。

同誌からの質問に信子さまの代理人弁護士が「お話しすることはできない」と答えている以上、真相は断言できない。それでも、週刊誌上で、こうした「事件」が報じられ、信子さまの代理人弁護士をはじめ、宮内庁も訂正を求めてはいない。まったくのフェイクだとは考えづらい。

実際、彬子さまの著書『赤と青のガウン』には、ひとことも信子さまについては触れられていない。

秋篠宮家でも、親子の確執が取り沙汰されてきたし、それが、「いじめ的情報」の元になった部分があろう。

19世紀ロシアの文豪、レフ・トルストイの名作『アンナ・カレーニナ』の冒頭の名言「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」を、いまさら引くまでもないし、また、秋篠宮家も三笠宮家も、どちらも「不幸」ではないのかもしれない。

彬子さまが、本を書いたり、テレビに出たり、また、京都に住んだり、と、のびのびと過ごしていたとしても、母・信子さまのほうに非難の目が向けられているのかもしれない。

しかし、だとしても、両家をめぐる世間のとらえかたの違いは、まだ完全には納得しがたいのではないか。