秋篠宮さまの「本音」と「建前」
ここでもヒントにしたいのは、本である。それも『秋篠宮』と題した本である。
同書は、2022年、ジャーナリストの江森敬治氏によって小学館から出版された。江森氏と秋篠宮さまの30年以上にもわたる「個人的な付き合い」をもとに行った、いくつもの単独インタビューをまとめたものだ。
「皇族である前に一人の人間である――。こうした規範とも言えるものが、彼(秋篠宮さま)の人生の中に、一貫してある」と江森氏は書く。社会学者の千田氏が述べていたように、秋篠宮さまは「自由で闊達なところを愛された」、その姿勢が、同書からも、ありありと浮かび上がる。
宮内庁のウェブサイトに掲載されている、これまでの記者会見の文字起こしを読み直しても、自由を尊ぶスタンスが貫かれているように見える。
けれども、一見すると「本音」ととれる発言のほとんどは、原則論というか、定型的というか、もっと言えば、「建前」なのではないか。
その疑いを最も濃くしたのは、江森氏から「令和時代の皇室のあり方」を尋ねられたときの、次の答えである。
「いじめ的情報」の火に油を注いでいるもの
江森氏が、「シンプルな答えだが、やはり私が求めていたものではなかった」と受けている通り、隔靴掻痒の感が否めない。
ここに、彬子さまの本やことばと、秋篠宮さまのことばとの、決定的な違いがあるのではないか。前者が、家族の確執を隠そうともせず、みずからの私生活をユーモラスに、あけすけに語っているのに対して、後者は、親子関係について率直に語っているかのように見せながらも、その実、教科書的なことばにとどまっているのではないか。
すでに述べてきたように、皇位を受け継ぐ、その立場の責任は重く、軽々しく「本音」は吐露できまい。けれども、だからこそ、私たちは、秋篠宮家の「建前」ではない、血の通ったことばを聞きたいと思ってしまう。その不満が、「いじめ的情報」の火に油を注いでいるのではないか。