「笑っていいとも!」の独特な空気感の正体
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いやあ、人間生きてると何があるかわからないものである。私も30を目の前にして、よもや「笑っていいとも!」を見にスタジオアルタへ行く人生を歩むことになろうとは。何だか言っていることがよくわからないが、とにかく今月の私は新宿アルタに「笑っていいとも!」の公開生放送に行ってきたのである。
放送開始から10年以上たつ、今や堂々の長寿番組と言っていい「笑っていいとも!」。ある時期には「タモリが降りるらしい」という噂が定期的に流れたり、内容に関する賛否も言われたりしたが、ここ2~3年、完全な安定期に入ったと思われる。
もう、そこに「在る」としか言いようのない状態。私も何だかんだ言いながら週に3日は「笑っていいとも!」を見てしまうような生活を送っているわけだが、もう、たとえばあの極彩色のセットが毎日組み立てられてはバラされているなどということが想像できなくなっている。あの番組が「つくられている」ものであるという気がしなくなっているのである。誰も何もしなくても、お昼になればあの番組は「存在」し出すように思えるのだ。
言ってみれば、アルタという場所には「笑っていいとも!」が住んでいて、毎日1時間だけその日常生活を中継しているとでも言おうか。文京ケーブルテレビというところには、とにかく一日中東京ドームを映している(中で何もやっていない時及び中を映せない時は外観を延々と映している)チャンネルがあるというのをきいたことがあるが、それとも相通ずるものがある気もする。
人間を備品へと変換させる構造
そして問題はあの「客」である。番組中に流れる「観客募集」のテロップは、確かにあの客たちはそれぞれの生活の場からあの1時間のために三々五々電車やバスに乗ってアルタに集まった個人の集合であることの証拠なのであるが、テレビの画面を通すとあの150人の客もまた「笑っていいとも!」の備品に思える。
私は、そのお客さんたちを見てみたいと思った。人間を備品へと変換させる構造がスタジオアルタ、いや「笑っていいとも!」にはあるに違いない。
まず、しょっぱなからやられた。「笑っていいとも!」を見に行くのは、ものすごく難しいことだったのである。ふと思い立ってハガキを2~3枚(10枚でも同じだと思うが)出したって当るもんじゃないらしい。
特に今回はうかつにも春休み中ということで、当らないこと当らないこと。休みの期間中は、地方からのハガキ応募が増える。当選のついでに東京旅行をするらしい。ディズニーランドとか行って。ま、ラチがあかないので番組取材という形で入れてもらうことにした。今回ばかりはしょうがない。