かつては露骨な宗教政党だったが…

公明党は1964年に、池田大作氏によって設立された政党である。そして公明党はその設立当初、「王仏冥合(王様の行うこと=現実政治と仏教の融合)」や「国立戒壇建立(国家に自分たちの宗教施設を作らせること)」などを政策課題として掲げる、「政教一致体制の確立を目指している政党」としか思えない活動を、さまざまに展開していた。

2010年に創価大学で撮影された池田大作氏
2010年に創価大学で撮影された池田大作氏(写真=Rukomii/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

特に党として初めて挑んだ67年の衆院選で25議席を獲得した際には、池田大作氏が直々に国会を訪れ、応対に出た竹入義勝氏が「次は総理としてお迎えいたします」などと語った、といった話まで伝わっている。

ただし、こうした公明党の“政教一致路線”は早々に頓挫する。1969~70年にかけて、創価学会が自分たちを批判する書籍の発行や流通に圧力をかけていたことが明るみに出た、「言論出版妨害事件」というスキャンダル事件が発生。池田大作氏は全面的な謝罪に追い込まれ、公明党の王仏冥合や国立戒壇建立などのスローガンも、取り下げざるをえなくなったのだ。

以後、公明党は創価学会の宗教的価値観を、例えば福祉問題などの現実的な政策課題に落とし込んでその実現を目指していくといった、自身の宗教色を薄める方向に舵を切っていく。創価学会との関係も、「公明党と創価学会は別組織で、ただ学会が公明党を支持しているだけ」というのが建前になった。

なぜ活動家議員が減り、エリート議員が増えたのか

そして、「池田大作先生を総理大臣に!」といったことが創価学会内で叫ばれなくなったのと軌を一にして、学会内部で強く押し出されていったのが、「総体革命」という路線だった。

これは創価学会の若手会員たちを、官僚や学者、大企業社員などのエリートに育てて社会の要所要所に送り込み、いわば“無血革命”的に社会を掌握しようとする方針のことを指す。具体的な証拠および統計資料などがあるわけではないが、実際に中央官庁で官僚として働く創価学会員はかなりの数にのぼるのではないかとされており、また創価学会現会長・原田稔氏の後継者だろうと常に話題に上る、谷川佳樹・学会主任副会長は、東京大学から三菱商事勤務を経て、創価学会の教団職員になったというエリートだ。

前述の元検察官・神崎武法氏は、年齢的にこの総体革命路線に沿って検察官の道を目指したのかどうか、判然としないところがあるが、山口那津男氏などは、恐らく総体革命のために司法試験に挑んで、弁護士となった人物である可能性が高い。

すでに述べたように、全体的に見れば公明党の代表とは創価学会の“バリバリ活動家”が就く例が多かったのだが、ここへきて総体革命路線から生まれたと思われる“学歴・体制側のエリート”が、山口氏、石井氏と2代続けて党トップを務めることになった。これも公明党の歴史上、初めてのことである。創価学会現会長・原田稔氏もまた東大卒であり、現在の創価学会、公明党とは、その最高幹部層の多くが東大OBになっているという現実があるわけだ。