性犯罪者になった推しへの怒りは映画に向かった
映画をつくってみたいと考えはじめた時の記憶がよみがえった。10代の頃、すべてをささげて愛したオッパ(韓国の女性が親しい年上の男性を呼ぶ言葉。ファンが俳優やアイドルに対して使用することも多い)が、性犯罪者として逮捕された衝撃的な事件の後、しばらく抑えがたい怒りがこみ上げていたが、特に何も感じずに過ごした日もあった。
毎日ずっとその人のことを考えて感情をすり減らしていたわけではない。ただ、この事件を忘れることは永遠にないという現実だけは、たえず心の奥底にあった。少し涙が出たり、激しい怒りを覚えたり、裏切り行為に対する言葉では何とも言い表せない気持ちになったりしながら、その人のファンだったという事実をユーモアで昇華する境地へとたどりついた。自分の苦しみは他人の幸せになる。友だちはわたしを哀れみながらも、空気を読んで「そんな人が推しだったなんて理解できないね」と、さりげなく皮肉を交えてジョークを言った。そんなときは、わたしも一緒に笑っていた。
そんななか、知人とご飯を食べていた時に、想像すらしなかった言葉を聞いた。推しが性犯罪で逮捕された経験を映画にしたらどうかというのだ。実際、映画をつくる人たちは、すべてを映画に結びつける傾向がある。日常のささいなことがらについても「映画のような出来事だ」とか、「映画をつくってみよう」とギャグ混じりに言ったりする。だから、この時もただのギャグだと受け止めた。「実体験が映画になることもある」という考えはずっとあったが、この事件がそれに値するとは思っていなかったからだ。
悲喜こもごもを共にした”推し仲間”を慰めたい
複数の人たちから「映画をつくったら面白い」と言われるうちに、いつしか映画のタイトルについて考えるようになった。「映画を撮るならわたしを出演させて」という友だちも現れはじめた。一度だけ読んで忘れてしまおうとしていた記事を再び徹底的に読み直し、キャプチャーして保存した。オンラインコミュニティーやSNSでファンの反応を集めてフォルダーに入れたりもした。それでも、映画をつくらなければならないという確信は湧かなかった。何かが少しずつ前進しているのを楽しみながらも、これが本当に映画になるのか疑問だったのだ。
そんなある日、ファンサイン会で列に並ぶ間に仲良くなって、推し活の悲喜こもごもをともにしたウンビンと電話で話した。事前取材というよりは、誰にも言えない心の内を打ち明けるためだった。わたしたちは、久しぶりに長いこと話しこんだ。ウンビンは言った。「あの人を好きになって以来、たくさんのこと(毎日その人の名前を検索し、曲を聴き、動画を見ること)が当たり前の日々だった。だからしばらくの間、事件に関する記事を読んで詳細を知ることで、日常を埋めようとしていた。でも、大衆やメディアの関心が薄れ、新しい情報がなくなると、毎日が虚しく感じられるようになった」と。
この言葉を聞いて、わたしのなかに隠れていた悲しみが姿を現し始めた。笑い飛ばそうとしたけれど、簡単ではなかった。思い出を奪われ、アイデンティティを失った。もう以前のように幸せを見出すことができない。それは、本当に悲しいことだった。おこがましいかもしれないが、わたしはウンビンをはじめとする友だちを慰めたかったのだ。そうすれば、自分も彼女たちに癒してもらえるだろうと思ったから。おたがいの気持ちをよく知っている人と語り合いたかった。