お粗末な大会運営と現地マスコミの翼賛

東京大会では、選手村や競技施設の出入りに、感染症対策のため、厳格な管理がなされた。前例のない中で、大会組織委員会をはじめとする運営側には、大会そのものの進行だけではなく、感染対策を両立させる、という、きわめて困難なミッションが課された。

にもかかわらず、競技では、今回のような「誤審」騒ぎは起こらなかったし、運営の面でも、きわめて順調に遂行された。少なくとも、メディアから、そうした批判が目立ったとは言えない。

ひるがえって、今回のパリ大会は、どうか。

夏季大会では8年ぶりとなる有観客というだけではなく、100年ぶりにパリで開かれたこともあってか、地元フランスのメディアは、翼賛、賛美一色に染め上げられていた。ふだんは政府に批判的な新聞であっても、日本では賛否の分かれた開会式を絶賛している

パリ大会は、東京のときとは逆に、マスコミの力強い後押しのなかで開催されている。もちろん、新型コロナウイルス対策など、どこ吹く風である。

だが、大会の運営は、順調とは言いがたい。「誤審」の疑いにとどまらない。選手村については、「食事の乏しさ」「競技場への移動時間の長さ」さらには「空調設備の不整備といった」批判が相次いだ。これだけなら、まだ稚拙というか認識不足だと甘受できたかもしれない。選手村で盗難が頻発したことからは、もはや、パリにもフランスにも、運営する資格に疑問符がつく。

オリンピック・パラリンピックのために装飾されたフランス・パリ市庁舎
写真=iStock.com/HJBC
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日本人がパリ五輪から学ぶべきこと

メディアから袋叩きにされ、難しい運営を強いられながら、無事に大会を終えた東京と、マスコミから応援され、コロナ対策も不要でありながら、これほどまでに不満が相次ぐパリとは、対照的だと言えよう。それでも今回のパリ大会は、日本人にとって、とても貴重な機会だった。「日本人が大切にすべきもの」を、3年越しであらためて教えてくれたからである。

それは、日本のオリンピック参加を進めた柔道の父・嘉納治五郎が説いた「礼」の精神だ。当時ヨーロッパで流行した「ジャポニズム(日本趣味)」の的だった柔道は、そのジャポニズムの本場たるフランスで「JUDO」になり広まった。その一方で、嘉納の大切にした礼節は、今回のパリ大会には見出しがたい。

観客の大合唱だけでなく、試合後に、畳を降りる前どころか、決まり技の直後に派手なガッツポーズを決め、会場に向けて雄叫びを上げるフランスの選手には、「礼」のかけらも見られなかった。

だからこそ、柔道の母国・日本に求められるのは、冷静になってフランスを許し、認め、自分たちの「道」を究めていく、愚直な姿勢を世界に示していくことにほかならない。それこそが嘉納治五郎が目指した「柔道の国際化」であり、「見るスポーツ」としての発展である(※1)。いくら柔道が「JUDO」という別のものに変えられようと、嘉納治五郎の精神は消えないし、日本人の礼節もまた、変化しても失ってはいけないものが、そこにあるからである(※2)

参考文献
※1:井上俊『武道の誕生』(吉川弘文館)
※2:広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)