後継者だった次男・篤二の「大失策」とはなんだったのか
栄一の長男・市太郎は早世してしまったので、次男の渋沢篤二(1872~1942年)が跡取り息子と期待されたのだが、旧制第五高等学校(熊本県)在学中の1892年に病気で退学を余儀なくされる。
実は病気ではなく、「大失策」を起こし、一族の意向で五高をなかば強制的に退学させられ、栄一の故郷・血洗島で蟄居謹慎という処分を命じられることになる。(篤二の姉の)歌子日記には、篤二の「大失策」が具体的に何であったかは記されていない。ただその緊迫した行間から、肉親として記すのもはばかられるような不祥事が起きたことだけは想像できる。
歌子日記を編纂した(歌子の孫の)穂積重行は、「篤二の『大失策』は、神経性ノイローゼによる耽溺流連ではなかったか、推察している」(佐野真一『渋沢家三代』)という。
篤二の「大失策」について、姪(弟・秀雄の次女)の渋沢華子(本名・喜多村花子)は、その著書の中で、もう少し具体的に述べている。すなわち、「篤二は、学習院から熊本高校に入学したが、そこの土地の娘と恋が芽生えた。一途な情熱は、彼に金を惜しみなく浪費させた。栄一はじめ二人の姉たちは、『すわ、お家の一大事』と、慌てて退学させ帰京させてしまった」(渋沢華子『徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一』)という。
次男は廃嫡、その長男が生物学の道をあきらめ跡を継ぐ
篤二の孫・渋沢雅英は「(篤二は)栄一の長男ではあったが、身体も弱く、実業にはあまり興味もなかったとみえて、その方ではとくに名を成さなかったけれど、生まれつき多才で趣味の豊かな人だったという。狂歌を読んだり、義太夫(浄瑠璃)も素人の域を脱していた。一時、写真に凝って、その作品集を後に『瞬間の累積』と題して父(渋沢敬三)が出版したが。ルポルタージュ写真としては、日本の草分けともいうべきすぐれた感覚と技術をもっていた」(渋沢雅英『父・渋沢敬三』)。
ここまでの文章で気がつかれた方もいらっしゃると思うが、渋沢一族には書籍出版されている方が多い。文才に富んだ一族で、事業なんか向いていないのかも知れない。
結局、篤二は廃嫡(跡取り息子から除外)され、篤二の長男・渋沢敬三が栄一の家督を継ぐことになった。この敬三も生物学に進みたいという思いを、祖父・栄一にやんわりと反対され、銀行家の道に軌道修正した。