冷房もない手術室によりすぐりの医師団

1980年代後半に米ソの雪解けが進みましたが、冷戦構造は残っていました。共産圏への輸出規制に抵触するため、日赤の麻酔機器をベトナムに持ち込むことができず、スウェーデンから調達することになりました。

ベトちゃんとドクちゃんが分離手術を受けるホーチミンのツーズー病院の手術室は、冷房もなく扇風機があるだけのただの部屋でした。施設や設備は頼りなかったものの、ベトナム側は全国12の病院からよりすぐりの医師ら70人を集めたチームを結成しました。3回にわたって綿密なリハーサルを行い、できうる限りの体制を整えました。

手術本番を迎えた88年(昭和63年)10月4日。私は手術のあいだ、ひとり別室で待機していました。そこに日本のテレビ局から借りた小さなモニターを設置し、手術室とつないだ映像を見守りました。別室では医師団が待機していて手術の経過を確かめながら、順次交代し執刀を続けました。

手術手袋を着用する外科医の手
写真=iStock.com/graphixel
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ベトちゃんとドクちゃん、それぞれに執刀医がついた大手術です。麻酔の開始から縫合まで17時間に及びました。私はずっとモニターに釘付けで、「あっ、切れた」「うまく外れたな」と、固唾かたずを呑んで手術の経過を追い続けました。

障害を抱えた子供たちはほかにもいる

壮絶なベトナム戦争を経験した現地の医師たちの執刀技術は確かでした。日赤の医療スタッフも「執刀に13時間」「麻酔が切れるまでプラス3時間」という事前の想定に従い、血圧や脈拍、呼吸、体温、意識をチェックしながら的確に麻酔の投与を調整しました。

手術は無事成功し、2人は手術室を出てから30分後に覚醒しました。分離手術を完璧にサポートした日赤の貢献は称賛され、ホーチミン市から私たち4人に名誉市民賞が贈られました。

私は日本を出発する時、手荷物のなかに喪服を忍ばせていました。着る必要がなくなってほっとしました。ただ、手術成功の興奮に包まれる病院を出て、ホーチミンの街を歩いていると、ベトちゃんやドクちゃんと同じような障害を持った子供たちを見かけ、複雑な気持ちになりました。

なぜ、2人には多くの義援金が集まり、7200万円もの費用をかけた手術の恩恵が施されたのか。2人の加害者が米軍なのだとしたら、ベトナム戦争後に障害を抱えて生まれた子供たちの医療支援は、米国政府の責任で行われるべきではないのか。そんな疑問が浮かび、人道支援の公平性について考えさせられました。

メディア対応の責任者だった私は、現地で最後に発表した日赤の声明文を次のように結びました。「不幸中の不幸を背負って生をうけた2人を救うことで、他の多くの子供たちに夢と希望を与えることを願っています」