後宮キャリアウーマンとして看板女房になった清少納言
平安時代は天皇制の下で藤原摂関家が実権を握っていた時代です。摂関政治のしくみは、娘を天皇の正妃にして皇子を産ませ、皇子が即位したときに天皇の祖父として権力を得ることでした。
一族の運命を背負って宮廷入りした妃たちの住む建物が後宮です。
娘の後宮に天皇を通わせるために、貴族たちは競って才能ある女房を雇いました。後宮女房は、宮廷における主人(妃)の価値を高めるために働く女性たちです。主人の身の回りの世話をしながら文芸活動をし、外部との取次ぎ役も務めました。
藤原定子は、容姿の優れた父親と頭のいい母親の血筋を受け継いだ、才色兼備の女性でした。14才のとき、父関白の威光によって一条天皇の中宮(正妃)となり、3才年下の天皇の心をたちまち虜にしてしまいます。さらに文学好きな一条天皇のために、有名歌人清原元輔の娘(清少納言)が雇われたと考えられます。その策略は成功し、清少納言は定子後宮を華やかに彩る看板女房になりました。
『枕草子』では上流貴族の子息たちが次々と定子後宮を訪れます。とくに天皇の側近として働く蔵人頭がしばしば清少納言と文学的な応酬をしていますが、彼らの訪問は天皇と中宮の親密な結びつきを意味していたのです。藤原道長側に政権が移りつつあった時期でも、女房たちとの交流に魅かれて訪れる上流貴族たちが絶えなかったと『枕草子』は記しています。清少納言が男性貴族たちを相手に機知的な受け答えをし、数々の評判を得ることこそ、後宮女房としての彼女の仕事でした。(赤間恵都子)