ジャーナリズムをめぐる「幻想」

「幻想」を抱いているからである。マスコミは、その報道(ジャーナリズム)によって、政治家、とりわけ、権力者をその座から引きずりおろせる、おろすべきだ、おろさなければならない、といった、ゆきすぎた期待=傲慢さ=幻想を抱いているからである。

その期待を一手に引き受けていたのが、3年前に亡くなった立花隆氏であった(*1)。丹念な取材と調査によって田中角栄の金脈問題を暴き、失脚させた――。そんな幻想を立花氏はマスコミに抱かせたのである。

ロッキード事件丸紅ルートの最高裁判決を傍聴し、報道陣に囲まれる立花隆(1995年2月22日、最高裁)
写真提供=共同通信社
ロッキード事件丸紅ルートの最高裁判決を傍聴し、報道陣に囲まれる立花隆(1995年2月22日、最高裁)

雑誌『文藝春秋』1974年11月特別号に載った「田中角栄研究 その金脈と人脈」のインパクトは確かに大きかった。とはいえ、角栄の晩年に「話の聞き役」を務めた元TBSの田中良紹氏(ここでの同姓は偶然であり、両氏の間に血縁関係はない)は、Yahoo!ニュースで「金脈を追及されたために総理を辞めたというのは違うかもしれない」と述懐している。

「田中角栄研究」と「ウォーターゲート事件」

田中良紹氏が、なぜそう思ったのか。詳しくは当該の記事をご覧いただきたいが、重要なのは、仮に立花氏の記事が、大きな影響力を持っていたとしても、ジャーナリズムが総理大臣を辞職に追い込んだ例は、ほかにリクルート事件を挙げられる程度にとどまる、という点にある。

いや、日本だけではない。

ジャーナリズムの先進国と言われるアメリカ合衆国ですら、ウォーターゲート事件が代表的ではあるものの、そう頻繁にあるわけではない。1972年6月、当時のリチャード・ニクソン大統領陣営の一員が、ワシントンD.C.でのウォーターゲート・ビルへ侵入し、盗聴器を仕掛けようとしていた事件をきっかけに、大統領をめぐるスキャンダルが次々に明るみに出る。その報道において、「ワシントン・ポスト」紙の記者カール・バーンスタインとボブ・ウッドワード、両氏の果たした役割に注目が集まる。

(*1)筆者は、この点について以前、雑誌『ユリイカ』の立花隆追悼特集号(2021年9月号)に「『田中角栄研究』以前以後 『政治家の研究』とはなにか」と題して執筆した。