「愛」という言葉が表すものは…
その愛が「本当の愛」である条件を並べて極めて狭い意味で「愛」を使うと、そんな関係を築いている人は、日本社会にひと握りもいないでしょう。
現実には、「一緒にいて楽しい」「つらいとき一緒にいてくれた」とか、「なんとなくこの人が好きだ」「アイドルのことを思うと胸がキュンとする」「見ているだけで幸せになる」という理由から、「この人を抱きたい、この人に抱かれてみたい」まで、多様な愛情に関連する経験をみなさんは日常的にしています。
このような親密関係、広く言えばさまざまな「肯定的なコミュニケーション体験」を、日本人は「愛」という言葉で把握して生活しているのです。そしてその対象は、身近な人間に限らず、画面の向こうのアイドルやペット、実在しないバーチャルな存在にも広がっています。
愛はこうして発達してきた
ここで、「愛」について歴史的な位置づけを整理しておきましょう。
ポイントは三つあります。
一つは、前近代社会においては、「愛」という概念や愛情経験、愛情関係は、人生にとって重要ではなかった。近代社会になり、「個人化」が進むとともに、愛という概念、愛情体験、愛情関係が、人生にとって重要な位置を占めるようになったという点です。
もう一つは、近代社会では、愛情関係は「家族、とりわけ夫婦、カップル」の中に閉じ込められる傾向が強まったということ。
それに付随して、「本当の愛情」と「偽物の愛情」といった、愛情に対する“ランク付け”が生じるようになったという点。
これらの三つのポイントは、「愛の分散投資」に関わってきます。さらに、日本社会における愛の位置づけにも関わってきます。それは、日本社会が欧米的な意味で「近代化」したのか、狭い意味では「近代的個人主義」が浸透したのか、という問いにも関連してきます。
議論を先取りして言えば、日本では、「愛情が人生にとって不可欠だ」という近代的意識の浸透はあったとしても、欧米ほど強くはない。そして愛は、家族の中、特にカップルの間に閉じ込めなければならないという意識も弱い。これが本当の愛情だ、偽物だと意識して悩む機会も少ない。これらの理由で、現代日本では「愛の分散投資」が広まっていると考えられるのです。