上皇陛下を産んだ香淳皇后は、島津久光の曾孫に当たる

ちなみに、忠義の娘が嫁いだ徳川家(将軍家、紀伊家、田安家)はいずれも紀伊徳川系である。残りの御三家(水戸家、尾張家)、御三卿(清水家、一橋家)はいずれも当主が水戸徳川系なので、島津家が水戸徳川家を嫌っていたのかも知れない。

孫たちの華麗な閨閥。その最たるものが、7女・久邇宮くにのみや俔子ちかこ妃の娘、良子ながこ女王が昭和天皇の皇后になったことだろう。その縁で、昭和天皇ご夫妻は「錦江会」に参加していた。つまり上皇陛下の母が、島津久光の曾孫ということになるので、今回もそのツテをたどって、上皇上皇后両陛下、秋篠宮ご夫妻と佳子さまが参加したのだろう。

皇太子妃に選ばれた久邇宮良子女王
皇太子妃に選ばれた久邇宮良子女王(後の香淳皇后)。当時19歳、1922年。(光文社『昭和の母皇太后さま』より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

高校の日本史で「宮中某きゅうちゅうぼう重大事件」というのを習わなかっただろうか。これが島津家と関係あるのだ。

1918年、良子女王が昭和天皇(当時は皇太子)の皇后に内定すると、長州閥のボス・山県やまがた有朋ありともがそれを阻止しようと暗躍した。良子女王が旧薩摩藩主・島津家の血縁者であるから、それによって薩長藩閥のパワーバランスが崩れることを危惧したのだ。

お后選びのとき、島津家ゆかりの宮家を山県有朋が妨害

1920年、山県は島津家に色覚異常者(いわゆる色盲)がいることを理由に、良子女王の立后りつごう内定の取消を提議した。これに久邇宮家は猛反発、右翼の運動家などを総動員して、山県発言をつぶしにかかった。結局、1921年に宮内くない大臣が責任を取って辞任。良子女王の立后は問題なしということになった。山県有朋は謹慎に追い込まれ、影響力を著しく失った。これが「宮中某重大事件」である。島津家が無関係であれば、起こらなかった事件であろう。

1924年、昭和天皇と良子女王は御成婚。夫婦仲が良く、子宝にも恵まれたのだが、4人目まで女児(内親王)しか生まれなかった。周囲は昭和天皇に側室を勧めたが、「人倫にもとることはしたくない」と頑なに拒否。5人目の出産で、やっと男児出生に至った。現在の上皇陛下である。

なお、昭和天皇の末娘(第五皇女)・貴子内親王は、久光の曾孫・島津久永ひさながに降嫁している。貴子内親王の「私の選んだ人を見て下さって……」は当時の流行語になった。久永は貴子内親王の兄・上皇の同級生、その父・島津久範ひさのりは昭和天皇のご学友でもあった。貴子夫人は健在であり、皇室との縁は続いている。

【図表2】島津家と皇室、徳川家、西郷家などの関係