中興の祖・鈴木修は入社後、オートバイ工場で実習した

鈴木修(1930~)は岐阜県益田郡下呂町(現・下呂市)に生まれた。旧姓は松田(マツダからスズキだ)。田舎から出たいという一念で、海軍甲種飛行予科練習生に合格(いわゆる予科練で、のちに特攻隊の中核となったので、もう少し第二次世界大戦が長引いていたら、おそらく死んでいただろう)。戦後に中央大学法学部を出て、中央相互銀行(現在の愛知銀行)入行。営業で才能を開花させ、鈴木俊三に見出され、1958年に長女・すま子の婿養子となった。

スズキはその前年1957年から学卒者採用をはじめ、修は2期生と一緒に3カ月のオートバイ工場実習を経験した。

オートバイ工場といっても、その実情は木造平屋の掘っ立て小屋。組み立てラインはベルトコンベヤーではなく、人力で回していた。部品メーカーは零細企業ばかりで、生産管理などロクにできておらず、納期は不正確。欠品が相次ぎ、中途半端にできあがったオートバイが工場内に安置され、部品が届いてやっと完成というお粗末な状態だったという。

軽自動車「アルト」の仕様を変更し、低価格路線で大成功

修は3カ月の工場実習を終え、企画室に配属されるが、そこに現場から上がってきた報告はキレイに化粧されていた。修は工場の実態を知っているので、その数字がウソだらけであることを知っている。社長(義父)に直訴して1週間で現場(工程管理課)に出してもらったという。入社3年目の1961年に工場建設の責任者に抜擢され(押しつけられ)、そこで予算より安く工場を建設、増産を果たして認められ、1963年に33歳の若さで取締役に選任される。

鈴木修は1978年に社長に就任すると、当時開発中だった軽自動車「アルト」の販売を1年延期して仕様を再検討し、商用車と乗用車の中間モデルを50万円以下の低価格で売り出す戦略を発案した。また、当時の自動車は輸送費の関係から、工場から遠い地域は値段が高く、全国統一価格ではなかった。これを全国統一価格の47万円に設定して、値段を連呼するCMを全国放送で流すという思い切ったアイデアで勝負した。「アルト」は1カ月目に8400台、2カ月目には1万台を超す注文を受けるほどの大ヒットを飛ばした。また、1993年にはワンボックスカー「ワゴンR」を発売している。

ジャパンモビリティショーでの鈴木俊宏社長、2023年10月25日、東京都
写真=EPA/時事通信フォト
ジャパンモビリティショーでの鈴木俊宏社長、2023年10月25日、東京都