明大女子部法科の助手となり、後輩の教育に熱を入れる
そのような中で、嘉子の生活の中心は、母校明大女子部法科での教育となっていきました。弁護士登録をするよりも前の1940年7月、嘉子は明大女子部法科の助手となっていたのです。さらに、1944年8月には助教授へと昇進しました(なお、その頃には明大女子部は改組して、明治女子専門学校となっていました)。
教師となった嘉子は、入学してきた女子学生たちの憧れの存在でした。学生たちは、「初の女性弁護士」というイメージとは遠い、明るく人間性豊かな嘉子に驚き、またその優しさに感謝したそうです。そのおおらかな雰囲気と反対に、講義が始まると、その張りのある声ときっちりした話し方とに、学生たちは惹きつけられました。
遠く満州から入学してきたある学生は、最初に会った時に、嘉子が優しく「遠くからよく来られたわね」と声をかけてくれ、良い靴がなくて困っていた時には、横浜の元町の靴屋まで連れて行ってくれたと語っています(なぜ遠く元町まで出かけたのか、嘉子のお気に入りの靴屋があったのか、わかりません)。
戦局は悪化する一方で、望んでいた弁護士活動はできなかった
当時の明大女子部の校舎は新しくなっていて、現在の山の上ホテルの近辺にあり、嘉子はここで民事演習、親族法、相続法などの講義を担当していました(戦後も続けています)。
とはいえ、戦局は日に日に悪化し、学校で勉学することが徐々に難しくなっていきました。明大女子部は繰り上げ卒業を実施し、防空演習や救護訓練なども学校で多く行われて、とても厳しい時代でした。