「北新地の料亭」がなぜ駅弁を?
「歴史の話をすると、ウチはもともと大阪の北新地で料亭をやっていたそうです。資料が残っていないので確かなことは言えないですが、おおよそ江戸時代からやっていたんでしょう。
で、鉄道が延びてきてビジネスになるぞ、ということで1903年に、阪鶴鉄道から鉄道構内営業の許可を得て、大阪駅を拠点に、車内販売を始めたんです」
柳本さんの言葉によれば、淡路屋の駅弁製造が本格的にはじまったのは、いまの神戸や明石ではなく、生瀬駅からだという。
「池田駅(現・川西池田駅)に構内食堂を出すも、場所が悪くて1年で撤退」(柳本さん)した。そうして移った先は、池田駅の3駅先の生瀬駅。ここには蒸気機関車の給水施設があり、列車が長時間停車していた。その停車時間に弁当を売ったところみごとに成功し、営業範囲を広げていくことになる。
「そのころの弁当は、鮎寿司がメインでした。阪鶴鉄道、福知山線は武庫川沿いを走る路線で、当時の武庫川ではよく鮎がとれたとか。
駅弁の地域ごとの特色というのは、流通や保存技術がまだまだ発達していなかった時代に地場のものを使ってつくるしかない、ということから生まれたのでしょうね」(柳本さん)
“紐を引っ張ると温まる弁当”を最初に採用「そういう気質なんです」
拠点が神戸に移ったのは戦時中。神戸の駅弁業者が廃業したことを受けて、国鉄から声をかけられたのがきっかけだ。戦争末期の空襲も乗り越えて、戦後の淡路屋は神戸で営業を継続する。1965年には、「肉めし」というロングセラー商品も発売している。
「当時の駅弁は幕の内弁当がほとんど。並弁当、上弁当といった区分があるくらい。そこで、神戸らしいユニークな商品を作れないかとなりまして、『肉めし』を。
関西では肉といったら牛肉なんです。神戸といえば牛肉ですからね。そういうわけで、当時にしてはシンプルな『肉めし』がヒットして、看板商品になりました」(柳本さん)
料亭からはじまって鉄道に進出、池田から生瀬、神戸へと拠点を変えつつ営業を続け、「肉めし」というヒット商品も生み出した。